祭如在祭神如神在
タイトルは『論語』の中から。
そこそこ有名な箇所ではありますが、ありとあらゆるところで読解が難しいとされるところです。
基本的な読みとしては
「祭るにいますが如くす。神を祭るにいますが如くす。」
「神をおまつりするときは、そこに神様がいると思ってしなさい」
程度の意味だと、通常の国語の授業では流されてしまうところでしょう。
しかし、この箇所の読みを竹内靖雄氏(他には末木 剛博氏?)に代表されるようなちょっとラディカルな宗教論を持っている人たち流に読むと、「いますが如く」のところが非常に強い意味を持ち始めてきます。すなわち、「神がいるかどうかはわからないけれど、あたかもいるかのように」という、読む人によれば非常に不信心極まりない読み方になってしまいます。
で、私も異端審問官のように神様仏様はいるのに!と苦言を呈したいわけでは全くなく、反対にこの読み方に大賛成だということを言いたいわけです。
そもそも、孔子は「怪力乱神を語らず」で有名な、非常に現実的な人と言いますか、経験論的な人と言いましょうか、形而上学的な議論を嫌う人でした。論理的で、かつ、人間の能力を超えた存在について語ることをよしとしない孔子であれば、「神様がいる、かのごとく」という読みは至って孔子的で、なんと言いますか、知的に誠実な立場だと私は考えます。
では、おのれは仏がいないと思っておるのか?という問いかけに対しては、仏教者としても一人の人間としても、やはり、孔子と同じように答えるでしょう。
「仏はいる、かのように信じて私は生きている」と。
信じるという行為を離れてそもそも神仏が実在するかどうか、を問うこと自体の無益さは、実は竜樹菩薩だってとっくの昔に散々おっしゃっていたことです。般若心経を唱えながら、仏様は実在する!などと主張するのは、まことに筋が通らない。
カントが「als ob」と言い、ウィトゲンシュタインが「語りえぬものには沈黙しなければならない」と言いました。本当のdenkerは誠実です。賢いこととは、弁えること。
我々は皆、拝み、祈り、信じるわけですが、そこに誠実であることが、まず大切であるように思います。霊感や霊能に与せず、ただ信じ、祈る。そうした行為のなかに、もしくは先に―神や仏は“あたかも、在るかのように”「在る」。それ以上、何を望みましょうや。