お寺の名前なんかどうでもいい、というお話
慈眼寺は「じげんじ」と読みます。「じがんじ」と読む方が多いですが、慈眼は通常「じげん」と読むのが仏教的には普通かと思います。しかし実はお寺の名前なんか、どうでもいい、というのが、今日のお話です。
近鉄奈良駅前に二つの大通りが交差しています。大阪方面からまっすぐ続く「大宮通り」と、京都方面から続く「やすらぎの道」。この二つの交差するところが「高天」の交差点です。このあたりは鎌倉時代から既に「高天郷」と呼ばれていた場所ですが、ここに、HPの写真ギャラリーにある石碑があります。ちょうど、セブンイレブンの信号を京都方面に渡り、メガネのミキや読売旅行の真横に立っています。
この石碑、建立は大正十年。西新在家町という慈眼寺のすぐ横の町の方々が建てられたもので、施主名も記されています。碑文は「聖武帝御感得 やくよけ観世音菩薩 是レヨリ北二丁」とあります。側面にはかわいい指のマークで方向を指し示しています。昔、といっても60年くらい前にはこの「やすらぎの道」には川が流れ、慈眼寺あたりは鬱蒼とした森が存在したそうです。こんな石碑でもないことには不安でまっすぐ行けなかったことでしょう。とはいえ今問題なのはこの碑文。正面にも側面にもお寺の名前がない。びっくりすることに「慈眼寺」のじの字もないのです。このあたりが「やくよけ観音」とこの地域の関わりを示しているとも言えます。つまり、このあたりでは「慈眼寺」の寺自体よりも、「やくよけ観音」の名前で通っていて、檀家か否かに関係なく、皆様に親しみをもって知っていただけていたのだということでしょうか。
そもそも慈眼寺のある北小路町はかつて「観音堂町」と呼ばれていた場所です。そもそもお寺が先にここにあったのではなく、奈良時代に疫病がはやったとき、聖武天皇が夢に現れた聖観音を仏像にして祈ったところ、疫病がおさまり、その仏像をまつった観音堂がここにあったのが寺のはじまりです。だからそもそもの創建時から、お寺より観音さまがまずありき、のお寺ということが言えます。
郷土史を紐解くと、江戸時代の資料では実はこのごくごく狭いエリアだけでも合計5つのお寺がありました。慈眼寺の手前の角を左に曲がったところに有名な称名寺。村田珠光のおられた由緒正しいお寺です。現存するのは慈眼寺と称名寺のみ。実は称名寺のすぐ北側には塀を接して寂照寺というお寺がありました。慈眼寺の北の角を曲がった西新在家町には本照(性)寺、さらにさらに、道を渡った奈良女子大の体育館のあたりに愛正寺。奈良女子大のバドミントン部やバスケ部の人はビックリするでしょうねぇ。ここにはもともとお寺が・・・。まぁ奈良女子のあったところ自体がそもそも奈良奉行所だったのですが。
話が脇道にそれましたが5つのお寺のうち現存しない3つは全て安政の大地震で崩壊し、以後再建はされていません。
称名寺は興福寺とゆかりの深い名門中の名門のお寺ですのでまさに別格といたしまして、既に述べましたように慈眼寺は観音堂からスタートしたお寺です。二町四方の巨大なお寺になったこともありましたが、松永久秀によって「ちりちり」にされてしまったそうです。その後観順とも観玉とも伝えられる方の開基によって復興し、安政の大地震にも耐え、小さいながらも今日までここにあり続けてきました。
このように、ごくごく狭い地域の郷土史を調べただけでも、何度も地震や火事や松永弾正やらに痛めつけられて消えてしまったお寺がたくさんある中、雨ニモマケズ風ニモマケズ、地震ニモ松永弾正ニモマケズ、ず~~~~っとここで観音さまが居て、いつの時代もみなさまが観音さまに手を合わせていた、それはちょっと、何というか、ちょっとすごいことだと思うわけです。ハイ。
そんなわけでそんなちょっとすごい観音さまのおかげで、代を重ねさせていただいた慈眼寺の住職も72代目です。名前を読み間違われてもかまいません。主役は観音さま、そういうお寺が、慈眼寺です。