慈眼寺 副住職ブログ

厄年とは何か?

 

「あんた、今年厄年やで。お払い行っておいで!」

と、お母さんやおばあさんに言われて半信半疑でしぶしぶ近くのお寺や神社に厄除けにたことのある人というのは、案外多いのではないでしょうか。「厄年ってなんかよくわからんけど、とりあえずなんか気持ち悪いし、行っとくか」と思った方も「そんなもん迷信だろ」とおもった方もおられるでしょう。

確かに。確かに。厄年ってなんなんでしょうかねぇ。

そもそも厄年という考え方の起源はよくわかっていません。陰陽道だとか言われたりもしますが、実のところこれだというものはなく、なんとなく経験則で先人の知恵みたいにして徐々に形成されたものかもしれません。すでに平安時代から13や25、61を厄年とする考え方があり、江戸時代頃には現在の考え方に近い、「男性25、42、61、女性19、33、61」を厄年と考える風習は存在していたようです。

しかしなぜその年なのか、は諸説あり、42で「死に」を表し、33で「散々」もしくは「産産」(出産は命懸けの一大事なので、それが連続するのはよくないとされた)、25=「5×5で後後二重後」で「死後」のことを表す、など語呂合わせで説明するもの、中国思想に則って数字の陰陽で説明するものなどがあります。ちなみに中国では奇数は陽数と呼び、縁起が良いとされます。逆に偶数は陰数と呼び、縁起が悪いとされます。(結婚式のお祝いが偶数を避けるのもこの影響でしょうか)この場合、例えば42は単純に偶数とされるのでなく、陰数4と陰数2の合成と考えられます。しかしこの原理でいくと、陰陰の並びは42だけで、25は陽陰、19は陽陽、33も陽陽、61は陽陰になります。バラバラです。しかも場合によっては19を10+9と考えて陰陽と考える説もある一方、その説でも33はなぜか3+3と考えるなど一貫性がありません。ですが、「死に」の語呂合わせに引っ張られやすい42以外、「陰陰」は案外危険視されていない、というのは興味深いところです。どちらかというと、33の陽陽が厄とされたり、25などの陽陰が注意されています。女性の場合顕著です。19、33、37。女性のみの厄はすべて陽陽です。男性は25が陽陰、42が陰陰で、男女共通の61のみが陰陽になります。

私の祖父であり、先代の住職、明哲は代々伝わってきた話としてよくこんな話をしました。

「厄年とは、悪いことが起こる年ではない。厄年はむしろ男として女としての節目で力のある時期。だからこそ、自分の力を過信して無理をしてしまう。それを戒めて普通に生活すれば、いつもよりよいことがある。」

そう考えると、特に女性が縁起がいいはずの陽陽が全て厄年となっているというのは、納得のいく話です。好事魔多しといいますか、調子のいいとき、よいことがあったときほど、不安がある。特に女性の33、37といえば、昔なら出産も終えて子育てに追われる頃、いまは晩婚化で結婚出産の時期でもあります。たおやかに見えて、案外逆境に強い女性は、良い時ほど気をつけてもらう、そういう意味付もあるかもしれません。

逆に男性は、普段強がっていても逆境には弱いものです。私もそうです。それで陰陰や陽から陰へと変わる節目に厄払いをすると考えることもできます。まぁこのへんは完全に私の勝手な理屈になりますが。

ここで一度「厄」という字を一度見直してみます。 

そもそも「厄」という字は「崖」をあらわす「厂」に「ひざまずく人」を意味する文字が重なって、「崖の上で立ちすくむ人」をあらわすそうです。表意文字というのはよくできています。つまり、目の前の困難に思案している状態が「厄」だということになります。

困難の最中ではないのです。

今はいいけれど、高みにいるけれど、その先が見えなくて立ちすくむ状態を指しているわけです。

ちなみに崖の先までいって下を覗いている状態が「危」です。これはもう危ないわけです。

上の説が正しいとするならば、「厄」は「これから到来するかもしれない将来への不安」を意味しており、その意味では陰陽説の私の素人解説もあながち間違ってはいないのかもしれません。

ただし、散々流布している「親は木の上に立って見ている」的な説は、字源としては完全に間違っているように、この説も正しいとは限りません。実際、「厄」の原字は「戹」で、馬などをつなぐ「くびき」から生まれた象形文字である、とする説もあります。(しかし逆に「午」の日に厄払いをすることとの関連も出てくる・・・?かもしれません。午の日になぜ厄払いをするかはまた別の日に。)

色々愚にもつかないことを書き連ねました。

しかし災厄というものに対する我々の態度というのは、実は「起こる前」だからこそ漠然とした不安を感じるという様態であらわれてくる、ということはかなり腑に落ちる考え方です。もちろん、嫌なことが続き、お払いにくる人もいますが、それは「今後起こるかもしれないさらなる災厄を除くため」であるわけです。そもそも本当の厄の真っ最中だったら厄除けにくることさえできないわけです。

 また何事も受け止め方次第であるというのも、人の心の常です。

交通事故で骨を折ったときに、「最悪だ!なんてひどい目にあったんだ!」と憤慨することもできますが、同じ状態で「命に別状がなくて、本当に良かった。ありがたい。」と感じて感謝することもできます。厄除けをしたからといって一生悪いことが起こらないわけではありませんし、人はいつか必ず死にます。そういう意味では毎年厄年だとも言えます。安心できるときがありません。安心するにはどうすればいいのでしょうか?絶対安心なものすごい厄除けがどこかにあるのでしょうか?

最高、最強の厄除けとは何か?

という問いへの答えは、良寛さんのこの有名な言葉に尽きるでしょう。

 「災難に逢う時節には災難に逢うがよく候。死ぬる時節には死ぬがよく候。 これはこれ災難をのがるる妙法にて候。」

 厄除けをする寺院のほとんどが般若心経を唱えるのもそういうことです。般若心経は「空」のお経。「確固とした実在に見えても全ては空であって、仮の姿である。仮の姿にこだわってはならない。」ということを繰り返し述べるのがこのお経です。良寛さんの心境=空の心境になったとき既に、人はあらゆる災厄をのがれているわけです。

ある意味では毎年が厄年、ある意味ではとりたてて悪い年もない。そういう意味では厄年なんてない、ということもできるでしょう。ただ、いずれ場合でも、こういうことは言えるのではないでしょうか。

厄除けとは、いつ起こるかわからない災厄に対して、無自覚に生きるのではなく、逆にただただ怯えるのでもなく、今この時無事であることを感謝し、これから起こるかもしれないあらゆることをあるがままに受け入れる態度を確かめるために、節目節目に手を合わせることである、と。