”ほんとう”なんてない
先日、木村拓哉さんがドラマでお線香の火を口で吹いて消したとかで非難されているというニュースを目にしました。あ、断っておきますが私はそれを非難して「最近の人はこんなことも!」なんていう気はさらさらないです。ドラマも見ていませんし。そもそも民放の地上波のテレビで自発的に見ているのは、金曜日のtenの「シュフとシェフの料理対決」から「めばえ」までの流れしか見ないです。あとは「仮面ライダードライブ」しか見ていません。
この仕事をしていると、「ほんとうはこうなんですよね?」と拝み方や祀り方について聞かれることが多いです。近所のおばさんが「ほんとうはこうなんやで」とか「厄払いはこうせなあかんのやで!」とかおっしゃられるようです。お墓参りの作法にも色々おっしゃる方がいます。例えば、お花はお墓の方に向けるのが”ほんとう”である、というのは一頃ものすごく流行りました。テレビでどこかの占い師だか霊能者だか徳の高いお坊さんだか知りませんが、そういう方がなにかおっしゃられると、まるでダイエット特集されたこんにゃくが翌日店頭から消えるように、みなが右へならえでついていきます。正直なところ、ウンザリする、というのが本音です。
宗教行事は地方ごとに本当に特色があります。お墓に供える植物も「下草」「しきみ」「ひさかき」「びしゃこ」など様々な植物を供えます。通常「榊」は神前用になりますが、お寺に供える場合もあります。そもそも本来は墓地のそばに勝手に生えている常緑樹を供えていたわけですから、地方性があって当然です。それにコレが正解だ、などと決めるのはそもそも無理があります。そもそもこうした植物の「呼び方」すら固定的ではないのです。「びしゃこ」を「しきみ」と呼ぶ地方もあるので、「なんでアンタびしゃこなんて供えたの!常識ないわね!」と言われても、ワケがわからない人もいるわけです。
やくよけも地方ごと、お寺ごと、神社ごとにそれぞれの「作法」があります。たとえばさんざんここで取り上げた「初午」も「2月の最初の午の日」のことを意味しますが、それを新暦でいうと時期は「3月の最初の午の日」になります。そのお寺なり神社なりが「2月」の意味をどう重視なさるかでその意味合いは変わってきます。
当寺の場合は「新暦の2月の最初の午の日」を「初午」と呼び、「旧暦2月の最初の午の日」は「二の午」と呼んで両方とも大祭を行います。
この場合、どちらで解釈しても大祭を行えますので、スッキリしますが、もし代々違う解釈をしていたら、そちらに従ったと思います。僕らは親や祖父やその前の世代のやった通りに続けながら、時代に即すべきところは変えていくのみです。昨今みなさん仕事がお忙しいですし、普段の日や別の午の日にご祈祷をしたいとおっしゃられるなら喜んでさせていただきます。「先祖供養をしたい」とか「観音さまに手を合わせたい」という気持ちが尊いのであって、その表し方にああだこうだと言う気は毛頭ありません。地方のしきたりがあるならばそちらに合わせられたらよろしいかと思います。何も知らないということでしたら一応ウチではこうです、とお伝えするだけです。「ほんとうはこう」などと言える自信など、たぶん一生持てないかと思います。
ただ、お花の供え方について、一応自分なりの考えを申しますと、なぜお花をお墓に供えるかというと、それは亡くなられた方に見せるため、という考えは、仏教の根本的教義に則れば、とらないと思われます。お経をあげさせていただきますと、頻繁に「美しい花も翌日には枯れる」といった表現がでてきます。仏教の根本原理の一つである、「諸行無常」です。ですので、きれいな花を飾るのは、「次にこられたときに枯れた状態を見るためにお花を飾っている」と考えることもできます。あんなに綺麗な花も、「あっという間にこんなに醜い姿になってしまった、私の命もこのようになってしまうのだな」という仏教において最も重要な「無常観」がここで学べる大事な機会です。亡くなった方々は仏さんになっていて、とっくにそんなことは分かってらっしゃるので、我々がそれを学ぶ機会を、亡くなられた方々が与えてくださっているわけです。もちろん、亡くなられた方々に美しい花を見せてあげたい、そう考えて供えられるのもよろしいでしょう。ただ、忘れてはならないのは「あっち」向きも「こっち」向きも「ほんとう」ではない、ということです。お墓に参られる気持ちが「ほんとう」に大事なことなのであって、その表し方はどうでもよいのです。いえ、参られるかどうかすらどうでもよいのかもしれません。「ああ、仕事が忙しくて墓参りができていないなぁ」と毎日気にかけているが、忙しくてどうしても時間が作れない人と、毎日親御さんにうるさく言われるから嫌々毎日墓参りしている人、どちらが「ほんとう」なのでしょうか。
どのような「式」にも意味があります。しかしただただ形を守ることに固執すると、そこから一番大事なものが欠けていくように思います。いわんや、他人の誰かを弔う心に対して「それは違う」「常識がない」などと非難することに、何の意味もないと思います。仏教は縁起説の宗教です。「全ては関係し合って、常住不変の実体などない」ということだけをひたすら確認していく宗教です。「“ほんとう”なんてない」教なのです。
実はさらに<「”ほんとう”なんてない」はほんとうか?>という問いをすることも可能で、竜樹という昔のインドのお坊さんはそれに対しても答えを用意しているのですが、その話はまたいつか。