慈眼寺 副住職ブログ

無題

何度も書いては消して、なかなか書けずにいたことを書きます。うまく書けませんが、どうしても書かずにはいられません。

テロリストの人質殺害事件のことです。

本当に、あんなものが動画で配信される日が来るとは思いもしませんでした。湾岸戦争のとき、空爆の様子が写され、青い光が断続的に降り注ぐのを、まるでテレビゲームのように現実感がないのに、あの光の先で、何人もの命が失われているという事実に、慄然でしたものです。ですが、今度の一連の出来事の醜怪さは、もはや出来の悪いホラー映画のように、ただただ不愉快で、おぞましくて、何日経ってもうまく言葉で言い表せません。

「ホラー映画のようだ」と、あの出来事を表現することに、眉をひそめる方もいるでしょう。しかし、現実に起こってしまったことなのに、妙に現実感のない、なんだかバカにされたような、作り物のような、変な感覚がしました。スプラッタ映画がさんざんリアリティーを追求したのに、いざ訪れた悪夢のような現実には、妙な作り物めいた醜怪さがある。本当に誤解のないようにお願いしたいのですが、あの卑劣としかいいようのない行為を作り物に喩えたいわけではないのです。人、一人の命が、あのように、まるで要らなくなったおもちゃのように、粗雑に扱われて失われて、そしてあのような形で晒されてしまうことに、人間の尊厳が言いようもなく軽んじられている、と感じました。後藤さんや湯川さん自身がどんな方であったか、私は新聞などを通じてしか知りません。ですが、人間の、彼らが生きてきた人生の、そして彼らが生きていたら成し得たであろうあらゆることを、そんなかけがえのないものを、あんな形で台無しにしてしまうということに、人間性そのものに対する冒涜を感じてしまいます。

今や、冒涜された彼らの死を、さらに冒涜するような行為がなされようとしています。彼らの死を、自分たちの都合のいいように解釈し、「だから・・・なのだ」と声高に語りたがる輩のことです。この輩のやろうとしていることは、殺された人間をもう一度殺すに等しい。何度も何度も、自分たちの思い通りの意味づけで、殺しなおそうという試みです。どんなに故人を讃えるかたちをとろうと、それは本質的には同じことだと思います。英雄視も、無謀な愚か者だと侮辱することも、ともに人間のすることではない。それをしてしまったら、ナイフを突き立てたテロリストと同じだと思います。

死を、ただただ死として受け入れる。我々がいますべきことはそれなのだと思います。あまりにも彼らの死が、過剰に意味付けられている。そんな気がして書きました。我々が問うべきは、我々が行ったことは正しかったのか。他にできることはなかったのか。これからどう行動すべきなのか。それだけです。

死は、ただ、死として、静かに扱って欲しい。

宗教者としてではなく、死んだ彼らと同じただの人間として、今はそう思っています。