慈眼寺 副住職ブログ

観音菩薩とは何か(1)「名前」がそもそも謎

さて、厄除け、厄年、初午、と来て、仏像の分類を行い、ようやく当時の本尊、観音さまのお話です。そもそも観音さまとは何なんでしょうか。観音菩薩の名前は本当に厄介です。これは、観音菩薩の出自が仏教のみにあるのではない、というのが一番の理由です。観音信仰がもともと仏教内部にあったものではなく、ヒンドゥー教のドゥルガー、ラクシュミー、ゾロアスター教のアナーヒターなどの女神と、ヒンドゥーのシヴァなどの男性神が重層的に重なり合い、誕生した信仰だと推測されています。まず、ここを抑えておかないと、観音菩薩という存在を追いかけて、無駄な努力をしかねません。観音菩薩は謎の存在であり、その正体はおそらく分からないと言っていいと思います。

「観世音菩薩」、「観音菩薩」、「観自在菩薩」と呼び名は基本的に3つあります。まず梵語では基本形としては「アヴァローキテーシュヴァラAvalokiteśvara」になります。この単語をどう分解するかで「観世音」になるのか「観自在菩薩」になるのかに分かれます。

かの有名な三蔵法師、玄奘の訳だと「観自在菩薩」となります。みなさんご存知かと思いますが、三蔵法師というのは固有名詞ではなく、役職というか、お坊さんの位のことですので、三蔵法師はたくさんいます。その中の一番有名人が西遊記の夏目雅子のモデル、玄奘です。(若い人は分からなくていいです)

彼は、Avalokiteśvaraを「avaokita(観ること)+īśvara(自在な者)」と解釈したわけです。「観自在菩薩」と言えば、みなさん絶対聞いたことがあると思います。「まかはんにゃはらみーたー かんじーさいぼーさー」の「かんじーざいぼーさー」=「観自在菩薩」です。般若心経の主役は観音さまなんですね。当寺に限らず、観音菩薩を本尊とするお寺の厄除けで般若心経が唱えられるのはそういう由来です。困ったことにこの「isvara」=「自在者」という名称はヒンドゥー教のシヴァの異名です。話が余計ややこしくなります。

で、さらにさらに困ったことに、夏目雅子がインドにやって来るさらに前、観音菩薩がでてくる最古の記録では「Avalokita-svara」となっており、「Avalokita=観ること」+「svara=音」と訳されます。さらにavalokitaのlokという言葉には「世の中、世間」という意味があり、そこから「観世」+「音」=「観世音」という訳語が出てきます。

ごちゃごちゃと書きましたが、結局、サンスクリットを漢訳した結果、「観ることが自在な人」「世の中の音を観ることができる人」などの意味が生まれました。

「音を観るってなんだよ」って思いますね。実際ここからは各人の持論にしか過ぎない解釈が分かれるところで、実際にそれを「矛盾」だと考えた夏目雅子は「観自在菩薩」と訳し、それ以外は間違っている、としたわけです。

で、「音を観る」です。ここからは完全な牽強付会です。親は木の上に立って見るくらい、インテリジェンスの欠片もない解釈です。

単に聴くだけならそれは私たちでもできるわけです。すごくもなんともない。ですが、母親は赤ん坊の鳴き声を聞けば、どこにいてもその様子や、状態まで、「お腹空いてるな」「おしめ替えて欲しいんだな」「さびしいのかな」「どこか痛いんだな」などと、まるでみえているように細かく分かります。見るではなく、観る。観察です。自分でいつも世話している赤ん坊だからわかるような、観察の結果を、即座に得ることができる。シャーロックホームズが部屋に入るまでに足音で依頼人の職業や経歴を見抜きますが、世界中の遠く離れた人々の悩みを神通力(「観音力」という固有の名詞までもってます)ですべて聴き分け、その悩みを理解し、自分のことのように共感し、救いの手を差し伸べる、そういう意味で「世の中の声を観る菩薩」という解釈は可能でしょう。ちなみに、根拠はまったくありません。実際観音経のなかに「慈眼視衆生」という言葉もあり、そこでは「視てる」わけですから、そこまでこだわっているようにも思えません。

隋代には観世音菩薩の解釈はさらに哲学的になり、「観=観智、世=客観的世界、音=衆生の機根」などという難しい解釈も登場します。しかし失礼ながら、正直、どの話もこじつけの域を出ていない気がします。高度なこじつけか、低レヴェルなこじつけか、その違いだけです。

結論として、一番大事なもともとの名前に関して、観音菩薩は謎が多いというお手あげな状態になります。名前の語源に2系統ありややこしい上に、文化的背景としてヒンドゥーやゾロアスターまででてくるとなれば、名前についてあれこれ詮索するのは研究者以外にとって正直無意味ですし、研究者だって新しい資料がでない限りこれ以上結論は出せないでしょう。観察を自在に行ったり、世の中の音をすべて観察したり、要は観音さんは「ものすごい神通力を持って観察してわかってくれる人」なのです。実は、観音についてもはやこんあちまちました議論が無意味になるくらい深遠にして簡潔な定義の前例があるのですが、その話はちまちました話をさんざんしたあとにしたいと思います。出し惜しみです。

もう一つどうでもいい知識として、「避諱」が原因で「観世音」が「観音」になったとする説もあります。唐の太宗の諱(いみな≒本名)は李世民。そのえらいえらい皇帝の名前を使うのはとんでもないということで、遠慮したという説です。昭和の時代に息子に「裕仁」ってつけたら、世が世なら不敬罪ですから、わからなくはないです。まぁこれもどこまで本当かはわかりません。ちなみに今生天皇のお名前は昭仁です。ポルノグラフィティーのボーカルの人と同じ。あ、逆ですね。天皇と同じ名前です。今はそんなことで罰せられないので「昭仁」で検索するとけっこうおられます。いい時代ですが、「昭仁 ポルノ」というのが検索候補に出てくるのはちょっとアレですね。

名前の紹介が長くなりましたが、その観音菩薩について書かれている経典で一番古くて、一番重要視されるのが「法華経」です。少しだけ学校の受験勉強でだけ仏教を学んだ人にとっては「法華経?日蓮宗でしょ?」と思うと思いますが、「法華経」はお経の中でも最古の部類に入り、全ての宗派にとって最重要な経典の一つです。聖徳太子が「三経義疏」で注釈したのも法華経ですし、天台宗の最澄がめちゃくちゃ重要視したのも法華経です。法華経=日蓮とだけ覚えておけばいいのは中学入試までです。センター試験だと通用しません!

その法華経の25番目の章が「観世音菩薩普門品」、別名「観音経」と呼ばれ、観音菩薩の性格付けに決定的影響を与えています。この「普門」という言葉はサンスクリット語で「サマンタムカ」で「あらゆる方向に顔を向ける」=「すべての方向に開く門」と訳したわけですね。この「あらゆる方向に顔を向ける」は「リグヴェーダ」で既に見られる表現で、観世音菩薩のさきほどの「世の音を観る」という性格にしっくりきますね。

 わぁ。名前とお経だけでこんな分量に。今日はここまでにしておきます。