「真理」(1)
私は「真理」とか、「正しい」という言葉は基本的に好きではありません。仏教徒は根本的に相対論者であるはずだという考えがありますので、絶対的な真理というものは認めがたいものがあります。
とはいえ、「攻略法」とか「コストパフォーマンス最高」とか「このミステリーがすごい!」など、「専門家」や「多くの人々」が教えてくれる「最短距離」の答えに、ついつい頼ってしまいたい気持ちも強いです。(自己啓発本とか。なんだそのジャンルって思いますけど。)
そのあたり、インターネットの世界は「<本当>」が溢れていて、「いま、本当に買うべき○○はコレ!」とか、「安倍政権の真相」とか「月間30万PVを達成する方法」とか、さも「<本当>」らしいタイトルが日々我々を誘ってきます。「クックパッドで評価1位のハンバーグ!」とかね。
不思議なもので、人はちょっと隠してあった事実を見ると「ああ!真理に出会った!」と思う習性があります。土に埋もれた宝箱を見つけると、「これこそが!」と思います。「実はもっと簡単な万能細胞があった!」とか。あんなの騙されない方がおかしいのですが、中身をみたら騙される方がおかしいわけで、発見のされ方、「権威」というものの効果がいかに恐ろしいかよくわかります。
自分は塾でも学校でも働いたことがあるのでよくわかるのですが、学校で教わっていないことを塾で教えると生徒は「すごい!」と思うことがよくあります。実際にすごいものもあるのですが、なかには価値がないから教えていないだけ、という場合も当然あります。まるで為替差益で儲けるように、「こちら側のゴミをあちら側で高値で売る」というようなことがよくあります。こういう言ってみれば「情報の為替差益」で儲けることは昔は素朴に使われていて、かつては「まだ見ぬ海外の最強レスラー」「全米熱狂!」に私たちは心を躍らせていたわけですが、今は簡単に暴かれてしまいます。
しかし、この「暴かれる」が曲者です。一旦隠していたものが暴かれると、途端にそれが真理だと思えてくる効果があります。今まで習った歴史と、真逆のことがネットで書いていた。マスコミが報じない内容がネットにあった!「これぞ真理だ!!!」というわけです。
構造的には情報の為替差益と同じことが行われていますが、一旦主体的な「暴く」という行為が挟まれると、以後、真逆の新情報が出てきても「情報操作だ!」「当局の介入だ!」「不都合な真実なんだ!」ということになります。私が言うのもなんですが、こうなってしまうと、もう宗教です。
スポーツの審判買収疑惑なんかもほとんどこれだと思います。現実はもっとみすぼらしいことが多いです。ある学校が募集人数を減らすと「○○はエリート教育に絞った。私たち庶民に用はないってことですね」と怒ってる書き込みなどをみたことがありますが、そこで働いている知人に聞くと、単純に「去年生徒を取りすぎて、教室数が足りない」なんてことがよくあります。審判の買収疑惑なんかも8割くらいは単純に審判のレヴェルが低いだけなのではないかと思います。
この「主体的に調べる」という行為が「情報の為替差益」効果と合わさると、いとも簡単に「真理」が生まれます。ネットで検索すると、今までの常識と違った新事実が書いてある。すごい。俺は真理を見つけた!こうなります。一度固定されると容易には「真理」は覆りません。今、実はSTAP細胞は実在した!とか、佐村河内さんは本当は曲作ってた!という新事実が出ても、容易には信じられません。結局、真理だなんだと騒いでも、他人の「信用」問題と変わらないのだと思います。
<長くなったので今日はここまで>