慈眼寺 副住職ブログ

観音

『正法眼蔵』第十八「観音」

雲巖無住大師、問道吾山修一大師、大悲菩薩、用許多手眼作麼 道悟曰、如人夜間背手摸枕子。雲巖曰、我會也、我會也。 道悟曰、汝作麼生會。 雲巖曰、遍身是手眼。 道悟曰、道也太殺道、祗得八九成。 雲巖曰、某甲祗如此、師兄作麼生。 道悟曰、通身是手眼。

 

有名な道元の正法眼蔵の一節です。

色々な仏教の説があり、高僧がいるわけですが、個人的に好きな人物は親鸞と道元です。なんといっても、ラディカルなのがいいです。守りに入ってない。私にはとてもできないことですが、とにかく抜き身の刀のような人たちです。こういう人はそのままでは早死するし名を残さない。鞘のような実直な人のサポートが必要です。基本的に偉人となっている人物には優秀な弟子がいることが多いですが、親鸞の唯円然り、道元の懐奘然り、実直で飾ってくれる鞘あっての名刀という気もします。ソクラテスとプラトンも言ってみればそうですし。

さて、上の一節は、「観音菩薩とは何か?」に対する道元の答えです。曹洞宗については高校の教科書以上のことは何も知りませんが、正法眼蔵は若いときにちょっと読まされたことがあり、読ませた先生の理論はさておき、正法眼蔵は結構面白くて電車で読んでいました。

上の一節を簡単に現代語訳すると、

 雲巌無住大師が道吾山修一大師に問うた。「千手千眼観音は多くの手眼を用いてどうするのか」。 道吾が言った。「人が夜間に手を背に回してしてまくらを探すようなものである」 雲巌が言った。「私は理解したぞ、私は理解したぞ」 道吾が言った。「そなた、いかに理解したのか」 雲巌が言った。「遍身が眼のある手である」 道吾が言った。「ほとんど言い得ているが、八九分である」。 雲巌が言った。「私はまあこのようであるが、師兄はどうなのか」。 道吾が言った。「通身がすべて眼のある手である」

ということになります。

私は禅僧ではないので、これの解釈の正解も知りませんし、「正解」だと思った瞬間、警策で叩かれるような気もしますので、細かい解釈は敢えてしません。実際この文言もわかったようなわからないような話で、それで「フーン、わかってるな」みたいな自己満足の解釈が百花繚乱という感じですので、私もサクッと自己満足しておきます。

私がこの箇所にひかれるのは「観音菩薩の千手千眼のはたらき」が「夜枕を探す」という日常の身体動作に喩えられているところです。あとの「八九成」がどうとか、遍身か通身か?などという問いは言葉遊びか深読み大会にしか思えません。

ごくごく当たり前だと思って、特別な努力は何もせず、何も考えずに行っていることこそが神通力だ、という解釈自体が、私の日頃の観音解釈に妙に「すとん」とくる気がします。観音菩薩の現世利益がものすごいパワーで不可能を可能にし、願ったことは全てかなう!と解して、我々は色々なお願いことをしますが、ほんとうは、普段普通に息をして、心臓を動かして手を動かして眼で見て何かを掴んで食べて消化して出して生きている、その「あたりまえ」が、実は神通力といっていい、とんでもないことなんだ、ということです。そして「あたりまえ」がいつかふいに「あたりまえ」ではなくなり、ものすごく不自由することになっても、今度はそれが「あたりまえ」になっただけなのであって、これが正しい「あたりまえ」だ!という状態はない、ということまで含めて、この「観音」という説は言い尽くしている気がします。

今日は結論めいたものもない雑感ですが、道元というテクストはそういう扱いで、いい気もします。門外漢のあてずっぽうです。八・九割どころか、「空振り」です。

今日は空振り三振で。お粗末。