坂道
先日のお説教の講習会で、ある人が、「日本中の上り坂と下り坂の数は同じ」という言葉をおっしゃって、その言葉がたいへん腑に落ちたと言いますか、どすんと心に響きました。
「なぜ、自転車に乗るの?」
と、よく聞かれますが、自分でもよく分かりません。バドミントンの方がキャリアが長い分、ずっと得意なのですが、なぜか自転車がやめられません。何も考えずに済む、と同時に、考えてないようで何かを考えるよりずっと深く何かを感じられる気もします。
数年前から、私の周りではつらいことばかりが続きました。そんなことを人に言っても仕方ないので、毎日明るく振舞っていましたが、ほんとうにしんどい時期でした。むかしは「ウチでは人が全然死なない。観音さまのおかげやな」と無邪気に思っていました。ところが、いつの頃からか、家族の中で祖母、祖父、母、もう一人の祖父とどんどん家族が減っていき、なんでウチだけが・・・という気持ちでいっぱいでした。
何もかもから逃げたくなったときには、よく一人で自転車で鉢伏峠という水間のほうへ向かう峠をひたすら登って、何も考えないようにしていました。それでも頭の中ではつらいことがぐるぐるまわって、将来への不安がお腹の奥あたりで黒々とうずまくような感覚がありました。そんなときは、「わーーーー」と大きな声を出しながら、ひたすら坂を登って、鼻水とか汗とか何か色々な体液にまみれながら、身体をいためつけて、頂上で倒れ込んで空を見上げていました。
少しだけ落ち着いてまた坂を下るとき、ぽんと頭のなかに一つの考えが浮かびました。「今まで誰も亡くなってなかったから、亡くなる人がいるんや」と。今まで亡くなっていたら、もう亡くなる人はいないわけで、誰ひとり亡くなっていなかったら、いつでも誰かが亡くなる可能性があるということです。それは物事の表と裏で、坂を登れば下るように、「当たり前のこと」なのだ、と思いました。さんざんお経で無常を説きながら、自分は何も分かっていなかったのだなと思いました。「今まで誰も亡くなった人のいない家の芥子の種」を探し回る母親と同じことを私はしていたのだと、そのとき気づきました。
言葉でいうのは簡単です。どんな真理も理解するのは簡単ですが、それを本当に実践するというか、体現するのは至難です。坂を下った自分は何かをわかった気がしましたが、下りきる頃には自分が何を分かったのかも分からなくなりました。これからも私は「死」というものに出くわすたびに恐れ慄き、嘆き悲しみ、取り乱して喚き散らしてしまうのだろうと思います。自転車に乗ったからといって人生のつらさは何も変わりませんし、あのときと今とで、自分は何一つ変わっていないと思います。
それでも私は考えるし、言葉にするし、自転車に乗っていくのだと思います。速くなる気は全然ないんです。レースに勝つ気も全然ないんです。汗にまみれて鼻水をたらし、喚き散らして、何かわかった気になって、また全て忘れて、全部やり直して。そんなことを繰り返して、自転車に乗っているのだと思います。