von Beruf
以下は、金沢大医学部附属病院長河崎一夫の有名な寄稿文です。長文ですが全文掲載します。
医師を目指す君にまず問う。高校時代にどの教科が好きだったか?物理学に魅せられたかもしれない。しかし医学が大好きだったことはあり得ない。日本国中で医学を教える高校はないからだ。高校時代に物理学または英語が大好きだったら、なぜ理学部物理学科や文学部英文学科に進学しなかったのか?物理学に魅せられたのなら、物理学科での授業は面白いに違いない。
君自身が医学を好むか嫌いかを度外視して、医学を専攻した事実を受容せねばならない。結論を急ぐ。授業が面白くないと言って、授業をサボることは許されない。医学が君にとって面白いか否か全く分からないのに、別の理由(動機)で医学を選んだのは君自身の責任である。
次に君に問う。人前で堂々と医学を選んだ理由を言えるか?万一「将来、経済的に社会的に恵まれそう」以外の本音の理由が想起できないなら、君はダンテの「神曲」を読破せねばならない。それが出来ないなら早々に転学すべきである。
さらに問う。奉仕と犠牲の精神はあるか?医師の仕事はテレビドラマのような格好のいいものではない。重症患者のために連夜の泊まりこみ、急患のため休日の予定の突然お取り消しなど日常茶飯事だ。死にいたる病に泣く患者の心に君は添えるか?
君に強く求める。医師の知識不足は許されない。知識不足のまま医師になると、罪のない患者を死なす。知らない病名の診断は不可能だ。知らない治療を出来るはずがない。そして自責の念がないままに「あらゆる手を尽くしましたが、残念でした」と言って恥じない。
こんな医師になりたくないなら、「よく学び、よく遊び」は許されない。医学生は「よく学び、よく学び」しかないと覚悟せねばならない。
医師国家試験の不合格者はどの医学校にもいる。全員が合格してもおかしくない医師国家試験に1,2割が落ちるのは、医師という職業の重い責任の認識の欠落による。君自身や君の最愛の人が重病に陥った時に、勉強不足の医師にその命を任せられるか?医師には知らざるは許されない。医師になることは、身震いするほど怖いことだ。
最後に君に願う。医師の歓びは二つある。その1は自分の医療によって健康を回復した患者の歓びがすなわち医師の歓びである。その2は世のため人のために役立つ医学的発見の歓びである。
今後君が懸命に心技の修養に努め、仏のごとき慈悲心と神のごとき技を兼備する立派な医師に成長したとしよう。君の神業の恩恵を受けうる患者は何人に達するか?1人の診療に10分の時間を掛けるとしよう。1日10時間、1年300日、一生50年間働くとすれば延べ90万人の患者を診られる。多いと思うかもしれない。だが日本の人口の1%未満、世界の人口の中では無視し得るほど少ない。
インスリン発見前には糖尿病昏睡の患者を前にして医師たちは為すすべがなかった。しかしバンチングとベストがインスリンを発見して以来、インスリンは彼らが見たこともない世界中の何億人もの糖尿病患者を救い,今後も救い続ける。
その1の歓びは医師として当然の心構えである。これのみで満足せず、その2の歓びもぜひ体験したいという強い意志を培って欲しい。心の真の平安をもたらすのは、富でも名声でも地位でもなく、人のため世のために役立つ何事かを成し遂げたと思える時なのだ。(引用終わり)
私は人の言葉の引用はあまり好きではないのですが、なかなかに感慨深い文です。いろいろお医者さんという職業には言いたいこともありますが、敢えて言いません。あ、あとで一つだけ言います。
この文はしかし、お医者さんだけの問題だろうか、と自問します。もちろんメスでお腹をあけたりはしません。ですが、私たちは毎日誰かとかけがえのない、決して戻ることのない時間を一緒に過ごしているわけです。
たとえば教師は、一生を左右するような受験という関門を前に、生徒さんの手助けをしています。でも実は、受験に落ちるなんてことは長い人生で、実はどうでもいいことなんだよということも教えられるかもしれない。そうすれば彼の彼女の人生を変えられるかもしれません。逆に、自分のせいで学校に来られない子を作ってしまうこともあります。実は、私のせいで来られなくなった生徒さんがいます。いまだにそのことを思い出して夜中に目覚めることがあります。たぶん一生忘れられないことです。一生恨まれているでしょう。自分のせいで自分の教えた科目が嫌いになる子もいるかもしれません。もしそうならその生徒さんにとっては一生の損失です。
お坊さんなんて、誰かの人生のとてつもなく重要な節目に仕事があります。お葬式だけでなく、毎日のお参りでおばあさんと仲良く話すかどうかで、おばあさんの生活の一つのアクセントにできるかもしれません。マクドナルドのアルバイトも、町の掃除の仕事も、同じです。お多かれ少なかれ、我々は何か決定的なことを常にしています。関係性が多すぎてわからなくなっているだけです。
あらゆる仕事が、つまるところマンパワーに集約されると思います。いいシステム、悪いシステムがあります。働きやすいシステム、人手が足りなくて疲弊するシステムもあります。残業上等で毎日日付がかわる職場もあります。
ですが、最後のところ、最後の最後は、目の前にいる人間に対して、どこまで本気で接することができるか、それが職業というものの本質なのだと思います。
どんな仕事でも、自分が一番無駄だな、と苦痛に感じるのは「外向け」の仕事です。その仕事自体になんの意味もなく、ただ、それをやってますよとまわりにアピールするだけの仕事です。たとえばある病院で患者さんにアンケートをとって要望を聞いている、という形だけ見せて、実は集計していない、とか、そういう仕事です。アンケートを配る人の気持ちは実にみじめです。なぜみじめかといえば、無意味だからです。自分の仕事に意味を見いだせないのは本当につらいです。
いわゆる「シーシュポスの労働」というお話があります。シーシュポスはゼウスの罰で巨大な岩を山頂へ運ぶことを命じられますが、山頂にあとわずか、というところで岩が転がり落ち、同じことを永遠に繰り返させられます。実は小学校の時、なんの神話の影響か、不死の身体になって永遠に地球を支えさせられる夢をみたことがあります。あれはめちゃくちゃ怖かった。これ以外にも私は幼少期に怖い夢をいっぱい見ていて、試しに知人の真理カウンセラーに箱庭療法など見てもらったところ、「ちょっと最近では滅多に見られないものすごい露骨なエディプスコンプレックスの見本のような症例」と大笑いされたことがあります。フロイト学派の希望の星です。
とにかくよい仕事の対極にある、こうした「無意味」という災いと戦い続けることが、そのままよい仕事を行うことだと思います。「仕事」はworkではない。ドイツ語のBerufには非常にプロテスタント的な色合いが濃いです。すなわち召命です。思し召し、天命、天職。英語ではcallingになりましょうか。非常にキリスト教の意味合いが強いですが、日本にも石田梅岩もいることですし、決してキリスト教だけに見られる考えでもありません。
目の前の誰かや何かを、意味をもってそこにいる人であり、そこにあるものだと考えて、全力で仕事をする。ついつい「コストパフォーマンス」なんぞという知恵の実を食べさせようとする蛇・・・あ、いかんいかん、菩提樹の下のマーラに惑わされそうになりますが、コスパなんぞクソくらえ!の精神で、ブラック企業はダメですが、ブラック個人として、もちろん家庭でも(ここ重要)、頑張ることが意味のある人生のためになにより必要なことのような気がします。
諸行無常の無意味な人生に、無駄な足掻きをさんざんして、最後はすべて受けいれる、そんなふうに生きられたら、河崎一夫も石田梅岩もカミュもニーチェもお釈迦様も、「すべてよし!」と言ってくれそうな気がします。
つまり医者だけが尊く、気高い職業なのではない、仕事として(「von Beruf」)働くからには、みな、誇りを持って全力で挑むべきだし、それが実は生きることそのものなのだとお思います。つまり私が言いたいことは、医者がナンボのもんじゃい!ということです(笑)