慈眼寺 副住職ブログ

善と悪

 あまりに多くの人が誤解しているように思うのですが、誰かに対して「お前は道徳的に悪である」と指摘すること自体は、なんら道徳的な行為ではありません。
 例えば、男が女の子に襲いかかっていることを止めることは「善いこと」だと思います。万引きをした人間を通報するのも「善いこと」だと思います。ですが、捕まった男に、「お前は悪だ!」と言い放つのは、ただの「罵声」です。ストレス解消です。言うなれば、快楽を追求したに過ぎない。法律に触れないと安心した上での暴力に過ぎません。道徳とは「行為」についての価値評価です。道徳とは、あくまで自分が行った行為、自分が行わなかった行為について、自分自身に問うことを意味すると私は考えます。自分の行為をなんら振り返りもせず、他者の行為に対して言葉の石礫を投げつける行為は、どこまでいってもただの暴力です。そして、絶対に捕まらない、絶対にやり返されないのを確認してからの暴力は、ただただ卑劣な行為です。大変醜い。

 「他人の反道徳的行為を非難するのは、なんら道徳的な行為ではない」

 別に宗教でもなんでもなく、理性的に考えれば自明のことです。日本は野ざらしにされた打ち首に石を投げつける時代から一歩も進んでいない私刑社会に成り下がっているように思います。誰か一人を悪者にして自分が清いと信じられるようなメンタリティーが、いつまでもいじめを温存し、弱い者を叩き、自殺者が3万に近づく社会を作る。

人は誰でも過ちを犯しうる。
私は浄土真宗ではありませんが、親鸞さんのこの言葉をとても大事にしています。

「またあるとき、唯円房はわがいふことをば信ずるかと、おほせのさふらひしあひだ、さんさふらうとまふしさふらひしかば、さらばいはんことたがふまじきかと、かさねておほせのさふらひしあひだ、つゝしんで領状まふしてさふらひしかば、たとへばひと千人ころしてんや、しからば往生は一定すべしとおほせさふらひしとき、おほせにてはさふらへども、一人もこの身の器量にてはころしつべしともおぼへずさふらうとまふしてさふらひしかば、さてはいかに親鸞がいふことをたがふまじきとはいふぞと。これにてしるべし、なにごともこゝろにまかせたることならば、往生のために千人ころせといはんに、すなはちころすべし。しかれども一人にてもかなひぬべき業縁なきによりて害せざるなり。わがこゝろのよくてころさぬにはあらず、また害せじとおもふとも百人・千人をころすこともあるべしとおほせのさふらひしかば、われらがこゝろのよきをばよしとおもひ、あしきことをばあしとおもひて、願の不思議にてたすけたまふということをしらざることをおほせのさふらひしなり。」(『歎異抄』 第十三条)

千人殺そうとしても一人も殺せないかと思えば、一人も殺したくなくても千人殺してしまう縁もある。何かが良いとか悪いとかいうのは、人間の善悪などという相対的なものと仏の救済はまったく関係がない、という意味です。だからといって犯罪者を罰してはならないなどというつもりは毛頭ありません。どこかで何かの線引きをしないと、社会の秩序は保たれないでしょう。ですがその線引きはあくまで最大公約数であり、その内側にいるから自分は悪人ではない、などとゆめゆめ思わないようにしています。たまたま私はこれまでのところそういう縁に恵まれただけ。それだけのことです。私が偉いわけでも清いわけでも全くない。
いつもそのことを忘れないようにしています。