慈眼寺 副住職ブログ

「私はできるのでなければならない」

先日、「大学になぜ行かねばならないのか」という奥さんの問いかけに、自分が十分答えられるのか、という問題に少し触れました。
結論としての私の意見はシンプルです。「大学に行かねばならない」とは全く思わない。自分の答えは「大学に行くことができるのでなければならない」というものです。

私はこの「~~することができるのでなければならない」という用法の言葉が大好きです。私の好きなものや人の端々に、この用法があります。ときに認識論に、ときに道徳論に、ときには生きるための矜持に、この「できるのでなければならない」must be able to、müssen könnenという用法が現れ、そのたびに「またこれか」と嬉しくなります。いかなるときも私に、「かくあるべき」姿を示す言葉のように輝いて見えます。

突然話は変わりますが、よく、中学生がこういう愚痴を言います。

「英語なんてやりたくない。俺は日本人だ。一生英語なんて使わない。だから英語なんてやりたくない。」

それはもちろんそうなのです。ずっと日本で暮らしていて、英語が話せずに困る瞬間など、外国人に道を聞かれたときくらいでしょう。そのときも逃げればいいわけです。ほかの教科でもそうです。歴史なんて要らない。微分積分なんて要らない。家庭科も要らない。物理も要らない。そういうときは、こう言うようにしています。

「使わないから要らない、というのは少し違う。使うことができない君の人生があるだけだ。えらそうに君が英語を捨てているように行っているが、実際のところ英語が君を捨てているのだ。そして君が捨てているのは英語ではなく、”英語を使える自分”という可能性だ。」

数学も歴史もそうです。使わないでも生きることに何の支障もありません。酒もタバコもギャンブルも同じです。ナシでも生きることになんの問題もない。自分で選ばないのは自由です。しかしそこで選び取った自由は、実は「不自由」に過ぎない。

”impossible is nothing”どこかのスポーツメーカーの宣伝でよく見ます。不可能など、ありえない。できないのではなく、やらない自分がいるだけ。外国語なんて使わなくてもとっくの昔に上杉鷹山が言っている言葉です。「成らぬは人の為さぬなりけり」です。

また、「学校の勉強なんて社会に出て、なんの意味もない」なんてよく言います。それは間違っていないのですが、そんなことは当たり前なのです。学問というのは抽象化され、一般化・普遍化されたセオリーです。Schoolの語源はスコレー=簡単に言えば「ヒマ」です。ヒマだから勉強するのです。大学はその最たるところ。ヒマ人の集まりです。逆に社会はどこまでも具体化、特殊の世界です。目の前のお客さん、目の前の一本のネジを前にして、経済学理論が、物理の法則が何の役に立つでしょうか。心理学の先生は友達に恵まれ、女の子にモテモテなんでしょうか?全然違いますよね。でも、そんなことは当たり前なんです。

言ってみれば素振りばっかりやってるのが大学です。ヒマだから素振りばかりやっているのです。素振りがどんなに分かっても、実戦では何の役にも立たない。でも、素振りのない実戦もまた、大切なものが欠けています。つまり、美しくない。合理的でない。遠回りで、新たな発見が一生生まれず、旧世代の研鑽が全く次世代に受け継がれない、どこまでも特殊な、目の前のベテランの職人一人だけの世界です。人が類として共有するべき何者も持たない、人が人であることの所以を捨てた世界がそこにあるだけです。

大学の勉強なんて役に立たないなんて言いながら、最新のパソコンで仕事をし、気象庁の天気予報を利用して、ハイブリッドのタクシーで営業をしているのです。すべて大学の研究室で産声をあげた技術です。大学の勉強とは共有知です目の前の1人を見てなんの役にもたたないのは当たり前です。一人では決して成し得ないことを達成するから尊いのです。

上の二つをまとめると、つまりこういうことです。

「大学の勉強が役にたたない」という言葉を発するのは、三種類の人間である。すなわち、その共有知を共有していない人と、共有していることを理解していない人と、そして共有知を使わないような人生を選択した人である。

結局のところ、大学で勉強されている内容自体に価値があるのは誰も疑いません。問題は、そこで学ばれる共有知に自分がより近づきたいか、近づく価値がある人間なのか、そこだけです。

 

そこで、「価値がある、ない」という問題になると、すぐに「俺、バカだから・・・」なんてわざわざ言う人がいます。実にもったいないです。今、わからないだけ、今、意欲がないだけ。なのになぜ、未来の自分の可能性を捨てるのか。未来の自分がきっと「なんであのときやってくれなかったんだ!」って怒るわけです。

でも、それでいいんです!

私たちには、潜在能力がある。バカのほうが可能性がある。バカ=潜在能力の塊だと、なぜ思わないのか。

 

スラム街で毎日スリをしている少年に、ゲーテの詩集を渡しても仕方がない。彼が欲しいのは、ただただ金だ。だから教育なんて要らない。
ホームレスの少年には、今日生き延びるパンだけが大事だ。彼に六法全書を渡して何になろう。

どちらもよくわかる話です。ですが、このホームレスの少年が、一生パンだけを求めると、なぜ言えるのか。いつか六法全書を手にして、弁護士を志さないとなぜ言えるのか。

肩書きだけは立派だけれど、全然尊敬していない大学の教授が、一度だけ僕を誉めてくれました。

「留学してからの君は、以前と全然違う。」

そこで私は、「もう今更遅いですよ」と言いました。すると彼は、

「勉強したいときが、するときだ。遅いも糞もない。したくてしょうがないとき、というのはあるんだ。」

と言いました。彼からは何一つ学びませんでしたが、この言葉だけは震えが来るほど嬉しかったです。

大学で触れることのできる「素振り」は本当にワクワクさせてくれるものがあります。ただし、世の中のあらゆる価値のあるものは、受け手に訓練を必要とします。口を開けていたら誰かが噛み砕いて与えてくれるものに何の価値もない。だから、自分でアゴの力をムキムキにしたものだけが、硬い殻を噛み砕いて共有知の永遠の美味を味わうことができる。そして、いつそれを味わえるアゴの筋肉が出来上がるか分からない。だから・・・

我々は常に大学に行って、学ぶことができるのでなければならない。

いつ来るかわからない「その時」がきたら、たとえ死の間際であろうと、学ぶことができるのでなければならない。

権利はそれを行使し続けることではじめて権利たりえます。

「自分ほどの人間には、この程度のことはできるのでなければならない」

こうした矜持が、人間のあらゆる進歩の最初の一歩であり、硬い殻を噛み砕くアゴの力の源泉です。私が、自分の生徒さんと自分の娘に望むものはそれだけです。アゴの力のない者はどこの大学に行こうと何一つ得ずに大学に行かなくてもできるアルバイトをして4年で1460日を無駄にするだけです。その4年で人類の築き上げた永遠の知に食らいつくことができる人間でなければならない。スポーツでもそう、仕事でもそう。ただただ口を開けて泣き続けるヒナのような人間ではいけない。能力なんてのは関係ない。「やりたい!」という意欲がないものは、大学でも仕事でもスポーツでも何一つ掴めない。大学なんてどこでもいいのです。いかなくてもいいのです。ただ、行きたいと思ったところには、何か理由をつけて諦めたりせず、いつでも行ける自分であってほしい。英語だってそうです。別に本気で要りません。英語なんて手段です。話したいことが何もないのに、必死で発音勉強して、できあがるのはアホなアメリカ人です。アホな日本人がアホなアメリカ人になるだけです。それだったら、英語をちっとも話せないのに突然渡米する女の子になってほしい。いや、それはただの特攻隊か。

結果、大学なんて別に行かなくていい、という奥さんと同じ意見になってしまいました。今日は負け、ですね。