慈眼寺 副住職ブログ

「おぼっちゃん」考

手

副住職は今年誕生日がくると40歳。不惑と呼ばれる紛うことなきおっさんであります。

しかしながらこの業界は不思議なもので、住職が健在な限り「若さん」、ひどいときには「ぼっちゃん」などと呼ばれます。
(関西ではお坊さんのことを「お師匠さん⇒おっさんと呼びますので、「若おっさん」も多いですね)お坊さんの平均年齢が高いのもあるでしょう。

40のおっさんを「ぼっちゃん」であります。なんだか気恥ずかしいものがあります(笑)。
しかしまぁ、これも小さい時から檀家様に可愛がられて成長してきたおかげ。いつまでも僕はお墓をよちよち歩いていたときのイメージなのでしょう。これは有難いことです。

今 のは単なる呼び名での問題ですが、お坊さんは一般的に世間知らずのボンボン育ちで、手に職もなければ腕っ節も弱く、足腰も弱くて頼りないことこの上ない。 まさに「おぼっちゃん」の呼び名にふさわしい人間のまま、40どころか還暦を迎え、90になっても100になっても「おぼっちゃん」のまま死んでいきま す。そもそも「大仏商売」といって他府県より基本的に頑張らない奈良県で、さらにお寺。大仏商売の権化のような存在が奈良のお坊さんです。あ、よそは知り ませんが、ウチのおじいちゃんから父、私の三人は間違いなくそうです。

もちろん、お坊さんの前に会社員をして社会の苦労を十分味わってお坊 さんになった方や、在家から一念発起してお坊さんになった方もおられます。やはりそういう方々は意識も高く、お寺で生まれたはずの我々よりよほどお経も短 期間で習熟し、世間の常識やスキルも身に付け、一代でお寺を大きくしたり目端が利くやり手の住職さんになります。俺は何年も寺にいて何をしてたんだと情け なくなります。

自分はお寺でぬくぬくと育ち、モノにならない研究をして、そっちも中途半端で投げ出した箸にも棒にもかからない人間ですので、こうした「男」に成った方々に憧れと言いますか、コンプレックスと言いますか、そういうものがやはりあります。
「手 は人生を語る」と言いますが、手も華奢でほんとうに女の子みたいな手をしております。よく母親に「仕事できへん手ぇやなぁ!」と散々子供の頃からバカにさ れました。得したのは指が10号だったので、結婚指輪が安くなったことぐらいです。やっぱり大工さんや石屋さんや職人さんは全然違います。物凄い万力のよ うなしっかりした手をしていて、なんでも器用にこなしはります。それに比べて私の手は情けない限り。一応、お墓や本堂の掃除や、施餓鬼棚とか、そこそこ重 いものも運ぶのは運ぶのです。今ほどゴミの焼却に規制がなかった頃は塔婆を集めてドラム缶で焼いたり、山のお寺の竹を鉈で切ったりしますし、家事の洗い物 もする方です。スポーツだってそこそこ以上にはしていますが、それでもやはり「男の仕事」を毎日何年もしている人とは比ぶべくもないです。

そ ういういわゆる男らしい人間に、少しでも近づこうとするんですが、いつまで経っても気が利かないし、力仕事もできないし、さりとて細かい仕事もできない、 詰まるところ「おぼっちゃん」だなぁ、という自分に毎日直面しています。Excelの使い方もかなり原始的です。フロントディレーラーの微調整も全然うま くいきません。

で、開き直るようで悪いのですが、もうどうせおぼっちゃんなんだから、おぼっちゃんらしく、人に助けられ、人に騙され、でく のぼうと呼ばれ、一生懸命やっても気が利かない感じのダメな人間で、ええやないか。というか、もうしゃあないんちゃうか。みんなに助けてもらえるところは 助けてもらって、そこで自分の力だ、と勘違いさえしなければ、いいのではないか、なんて最近思い始めています。

しょせんおぼっちゃんなのに 世の中知ってる風に知ったかぶりだけはすまい。「おぼっちゃんである」という恥ずかしい自覚だけは持とう。あとはもう「おぼっちゃんでスイマセン」でもえ えんじゃないか。人を騙したり、出し抜いたり、そういうことさえしなければ、ええんじゃないか。どうせおぼっちゃんが背伸びしてもどこまでいっても世間知 らずのおぼっちゃま。おぼっちゃまのまま行ったらええんちゃうか。どうせ頭打つとこはしっかり打つんやし、目端が利かない分どうせ損もしてるし、そもそも 出家ってそういうことなんじゃないのか。もう世間知らずでええんちゃうか。40まできたら、逃げ切るしかないんとちゃうか。いや、その考えがすでにおぼっ ちゃんでアカンのや!そんな自問自答をしながら、ハッと気づくわけです。

そんな自問自答をしている余裕がある時点で、どこまでいってもおぼっちゃんなんや。社会で戦ってる人は向き不向きなんか無視して舞い込む仕事をこなしてるんや。と、いうことに。

我おぼっちゃま、ゆえに我有り。

そんなわけで、名実ともにおぼっちゃま、お金はないのにおぼっちゃま、このまま死ぬまでおぼっちゃま、の副住職の嘆きと開き直りでした。お粗末。