バガヴァッドかく語りき①
大学時代に「バガヴァッド・ギーター」の講読の授業がありました。
当時は熱心な学生ではなく、もっと熱心に勉強しておけばよかったなと思っています。何事も、受容する側の問題ですね。
「バガヴァッド・ギーター」は「神の歌」の意味で、ヒンドゥー教の聖典です。バラモン教からは仏教・ジャイナ教・ヒンドゥー教などが枝分かれしましたが、このバガヴァッド・ギーターにはヴェーダの思想はもとより、紀元前の古代インド人の思想のエッセンスが凝縮されており、しかも平易な文体の叙事詩で書かれているので非常に読みやすい。読みやすいけど、意味を理解するのは難解、という困った本です。
ちょっと今日は備忘録も兼ねてこの本の一部(第2章)を抜き出してご紹介します。予備知識としてご紹介しますが、そもそもこの「バガヴァッド・ギーター」とは、壮絶な先頭のさなかに王子アルジュナが戦争をすることの意義を見失いかけたとき、導き手のクリシュナ(聖バガヴァッド)が彼に語りかけて王子を鼓舞するお話です。強調は引用者。
聖バガヴァッドは告げた。
あなたは嘆くべきでない人々について嘆く。しかも分別くさく語る。賢者は死者についても聖者についても嘆かぬものだ。
私は決して存在しなかったことはない。あなたも、ここにいる王たちも・・・・。また我々はすべて、これから先、存在しなくなることもない。
主体(個我)はこの身体において、少年期、青年期、老年期を経る。そしてまた、他の身体を得る。賢者はここにおいて迷うことはない。
しかしクンティーの子よ。物質との接触は、寒暑、苦楽をもたらし、来りては去り、無常である。それに耐えよ、アルジュナ。
それらの接触に苦しめられない人、苦楽を平等(同一)のものと見る賢者は、不死となることができる。
非有(身体)には存在はない。実有(個我)には非存在はない。真理を見る人々は、この両者の分かれ目を見る。
この全世界を遍く満たすものを不滅であると知れ。この不滅のものを滅ぼすことは誰もできない。
常住で滅びることなく、計り難い主体(個我)に属する身体は、有限であると言われる。それ故、戦え。アルジュナ。
彼が殺すと思う者、また彼が殺されると思う者、その両者はよく理解していない。彼は殺さず、殺されもしない。
彼は決して生まれず、死ぬこともない。彼は生じたこともなく、また存在しなくなることもない。不生、常住、永遠であり、太古より存する。身体が 殺されても、彼は殺されることがない。
彼が不滅、常住、不生、不変であると知る人は、誰をして殺させ、誰を殺すか。
人が古い衣服を捨て、新しい衣服を着るように、主体は古い身体を捨て、他の新しい身体に行く。
武器も彼を断つことなく、火も彼を焼かない。水も彼を濡らすことなく、風も彼を乾かすことはない。
彼は断たれず、焼かれず、濡らされず、乾かされない。彼は常住であり、偏在し、堅固であり、不動であり、永遠である。
彼は顕現せず(認識されず)、不可思議で、不変異であると説かれる。それ故、彼をこのように知って、あなたは嘆くべきではない。
また、彼が常に生まれ、常に死ぬとあなたが考えるとしても、彼について嘆くべきではない。
生まれた者に死は必定であり、死んだ者に生は必定であるから。それ故、不可避のことがらについて、あなたは嘆くべきではない。
万物は、初めは顕現せず、中間が顕現し、終わりは顕現しない。ここにおいて、何の嘆きがあろうか。
ある人は稀有に彼を見る。他の者は稀有に彼のことを語る。また他の者は稀有に彼について聞く。聞いても、誰も彼のことを知らない。
あらゆる者の身体にあるこの主体(個我)は、常に殺されることがない。それ故、あなたは万物について嘆くべきではない。
更にまた、あなたは自己の義務を考慮しても、戦慄くべきではない。というのは、クシャトリヤにとって、義務に基づく戦いに勝るものは他にないから。
たまたま訪れた天界の門である戦い。アルジュナよ、幸福なクシャトリヤのみがそのような戦いを得る。
もしあなたが、この義務に基づく戦いを行わなければ、自己の義務と名誉とを捨て、罪悪を得るであろう。
人々はあなたの不名誉を永遠に語るであろう。そして、重んぜられた人にとって、不名誉は死よりも劣る。
勇士たちは、あなたが恐怖から戦いをやめたと思うであろう。あなたの能力を難じながら。これほとつらいことがあろうか。
あなたは殺されれば天界を得、勝利すれば地上を享受するであろう。それ故、アルジュナ、立ち上がれ。戦う決意をして。
苦楽、得失、勝敗を平等(同一)のものと見て、戦いに専心せよ。そうすれば罪悪を得ることはない。
このあたりは理論(サーンキヤ)における知性(ブッディ)、すなわち理論的に正しい認識について語ったところですが、実にインドに特徴的な思想がギュッと濃縮されている気がします。生きたり死んだり、財を得たり、失ったり、成功したり失敗したり、勝ったり負けたり。これらの相対的な差異を追い求める以上、決して我々は生きることも得ることも勝つこともできない、と彼は言います。こうした相対的な際の世界を越えて、「苦楽、得失、勝敗を平等(同一)のものと見」る絶対的境地に立つことでしか、人は心の平安を得ることはできない。ゲームでの勝敗の連続から逃れるためには、「ゲーム自体から離れる」という、よりメタな立場に立った地平に立たねばならない。これがインドのヴェーダの到達した境地であり、仏教もまたこの境地から一歩も出てはいない同一の思想に則っています。
しかし、では我々はどう生きればよいのか?すべてを相対化するなら、努力などなんの意味もないことになる。戦闘などは論外のはずです。世捨て人になって瞑想でもしていればよいのでしょうか?ですが、そこのあたりの捉え方も古代インド人はまた壮大です。この2章の引用箇所の続きにこんな文言があります。
いたる所で水が溢れている時、井戸は不要である。同様に、真実を知るバラモンにとって、すべてのヴェーダは無用である。
あなたの職務は行為そのものにある。決してその結果にはない。行為の結果を動機としてはいけない。また無為に執着してはならぬ。
アルジュナよ、執着を捨て、成功と不成功を平等(同一)のものと見て、ヨーガに立脚して諸々の行為をせよ。ヨーガは平等の境地と言われる。
どんなことが起こってもそんな結果には意味がない。これまた特異な思想ですが、古代インド人の「いかに生きるべきか」に対する考えのヒントがここにあります。次回は、第3章で語られる実践(ヨーガ)における知性についてご紹介します。