慈眼寺 副住職ブログ

但馬 仏像の旅③

いよいよ但馬~丹波と兵庫を縦断した仏像の旅もついにゴール。
達身寺からひたすら国道を南下し、小野市まできました。そうです。浄土寺の快慶作阿弥陀三尊像を見るためです。
快慶の代表作、と言われる著名な仏像ですが、残念ながら今まで一度も見たことがなかった仏像です。これだけのために旅をしてもいいくらいのビッグネーム。

浄土寺は奈良や京都の大伽藍と比べれば小規模ですが、浄土堂に薬師堂、さらには八幡神社や各種お堂も兼ね備えた小宇宙といっていい構え。とはいえ圧倒的な存在感の浄土堂は建物自体が現存する大仏様建築の見本の一つ。その中の、高さ5m30のとんでもない阿弥陀如来の威容は、確かに筆舌に尽くしがたいものがあります。顔は正面から見るとややふくよか、側面から見るといわゆる「シュッとした」洋風顔という面白い作りで、見る角度により印象が変わります。よそでは主役の観音菩薩もこの配置だと完全に「脇」に徹していて、あんなに大きいのに印象は控え目。というより、阿弥陀如来の存在感が大きすぎる。案外印象に残ったのは足元の蓮華座と雲の表現で、実にダイナミックです。仏像自体がシンプルなぶん、足元の作り込みが目を引きます。

大仏様という様式自体が、巨大な仏像をドカンと据えて、そのためだけに広い縦長空間を確保する「仏像が主役」の建築様式なので、この浄土堂も至ってシンプル。しかし、仏像鑑賞には最適で、阿弥陀三尊をじっくりと、横からも後ろからも存分に眺めることができます。
スポットライトも完璧で、浄土堂西側の蔀戸からは日光が降り注ぎ、まさしく、西方極楽浄土から、日光とともに今、巨大な阿弥陀如来がやってきた臨場感が見事に再現されています。その日は昼間でしたが、夕刻には堂内全体に西日が差し、金色の阿弥陀如来が赤く染まる仕掛けです。完璧。

こうして各地で仏像を見ていると、必ずと言っていいほど登場するお坊さんベスト3がいます。弘法大師空海と行基が二大巨頭でしょう。どこへいっても空海が建てた、行基が開いた。そんなに全国まわってたのかとビックリします。そして、その二人よりややマイナーながら私の行く先々に必ず現れるのが重源です。

重源は東大寺の大勧進であり、平重衡が焼き討ちした東大寺の復興に尽力した、とんでもないバイタリティーのお坊さんです。ただお経をあげているお坊さんではなく、各地をまわり、予算を全国から集め、自分で中国に行って建築を学び、陣頭指揮をとって大仏殿を再建する60超えたおじいちゃんです。考えられない。行基の再来といってもいいです。

この浄土寺は重源が播磨地方の財源確保の拠点とした地域。このあたりをバッチリ抑えるために、念仏信仰の一大拠点を作ったわけです。重源自身、法然にも師事した念仏の信者で、快慶に数多くの仏像作成を依頼し、念仏の信仰を広めています。快慶の足跡を追えば、必ず重源の名前が出てきます。東大寺でも、奈良町でも、都祁村でも、この但馬~丹波の旅行でも、「重源」の名前は何度も出てきました。こういう言い方は失礼かもしれませんが、「怪僧」と言っていいほど、精力的に活動しています。それもひとえに、彼の念仏への揺るがぬ信仰と、東大寺再建への情熱の強さゆえです。

実は重源の復興にもかかわらず、大仏殿は松永久秀によって再び焼失してしまいますが、このとき大勧進職に就き、現在の東大寺を再建したのが公慶です。実は私、この公慶さんの法要に参加させていただき、大仏殿の大仏さまの足元までいって読経させて頂いたこともあるのですが、あのときの感覚は今でも忘れられないものがあります。そしてこの公慶さんのお墓は、重源さんが建てた東大寺の塔頭である五劫院さんにあります。そしてこの五劫院さんとは、普段は同じ浄土宗の組寺として一緒に法要などでご一緒させて頂いているご縁もありまして、重源-公慶の名前は普段から自然と耳に残っていました。浄土宗の僧侶である我々が大仏殿で念仏をあげさせていただいたのも、ひとえに重源上人-公慶上人という二大勧進職と法然上人との繋がりあってのことです。800年以上前の人物が、今なお我々に大きな影響を与え、そして行く先々の仏像に彼の姿が見え隠れする。気が遠くなるような感覚を覚えます。

結局旅の終わりに見た仏像としての浄土寺阿弥陀如来の巨大さに、私は「俊乗房重源」という僧侶の巨大さを見ることになったのでした。

 

P.S.
ですが、そのあと、娘のためにいったアンパンマンミュージアムのアンパンマンで、一旦リセットしてしまったのでした。