慈眼寺 副住職ブログ

「ありのまま」の欺瞞と、歴史の「ねまわし」

去年から「ありのまま」という言葉が大流行りしています。
ですがそんな言葉が出る前から、「自分探し」はずっと前から若い人の仕事でしたし、だいぶ前から大人でも「自分史」をまとめてみたり、「自分」の「ほんとう」を探す動きはずっとあります。

歴史もそうです。過去の悲しい出来事をめぐって、「そっちが悪い」「この島は我が国固有の領土」などと争いが絶えません。「真実の歴史」「客観的な歴史」などというものを各々が主張するという奇怪な事態が起こります。

しかし、そんなものはあるのでしょうか?

「理論負荷性(Theory-ladderness)」という言葉が、科学哲学の世界にあります。

我々は、例えばしし座流星群を観察して、「あ!流れ星だ!」と認識します。ちょっと理科好きな子供でも、「大気圏で、流星が燃えているんだ」と思います。日食だと言えば多くの人が仕事を休んでまで観察しにいきます。顕微鏡で微細な生き物を見て、「こんなにたくさんな細菌が繁殖している!」と驚いたりもします。私たちは、「ありのまま」の「生の事実」に触れている気がします。

しかし、本当にそうでしょうか?

たとばギリシャの神話の世界に生きていた人々は、雷を「ゼウスの怒り」だと認識したわけです。流れ星も、地球を惑星であるという前提のもとではじめて得られる認識です。日蝕などというものは、非常に多くの価格理論を前提にしてはじめて理解できる現象です。惑星が球体で、地球と月が太陽の周りを公転しているという地動説を前提にしないと理解不能です。ただ、「太陽が隠れた」という事実は、誰にとっても明らかだ、と思うかもしれません。しかしそれ自体、「太陽」という一個の天体が動く、という理解の下、はじめて可能な認識です。顕微鏡も同様です。観察機器というのは、作られたとき既に「それで見たいもの」をみる”ため”に作成されたものです。肉眼で見たものすら何かしらの前提の上で見てしまっているのに、観察機器を介して見たものが「中立」であるはずがありません。

ただ、ここで注意しておきたいのは、「だから科学など信用できない」と、私が言っているわけではない、ということです。我々はあくまで、一定の「ルール」の上で物事を見ており、そのルールのもとでは物事の真偽・優劣は明らかです。バスケットボールでは当たり前の行為がサッカーでは反則になります。ただし、同じルールのもとではリーガルとイリーガルの差は明確です。むしろ、そのためにルールがあるのですから。

ただ、問題は、我々が果たしてどのようなルールを前提にしているのか、ということを全て認識できているときのみ、こうした真偽の理解が可能だということです。一歩下がって、あるいは一段上から見れば、いかなるルールに従って何が真とされているか、を見ることができます。しかし、我々は我々自身を見わたすことのできる視点を、おそらく永久に持つことはできないのです。

科学的認識においてさえ、キリスト教的世界観によって地動説が受け入れられるまでに長い時間がかかりました。コペルニクスが提唱するまで、地動説が存在しなかったわけではないのです。地動説をコペルニクスが唱える2000年も前に、アリスタルコスが既に科学的な意味での地動説を唱えていたにもかかわらず、ずっと天動説が支持されてきました。さらに、ガリレイがあの有名な言葉を残して死んだあとも、ローマ教会は地動説を認めず、公式にガリレイへの宗教裁判について謝罪したのは、なんと1992年です。ガリレイの死後、350年後のことです。

科学というのはあくまである目的のために任意に設定された仮説的定式化がたまたまうまくいった場合、うまくいっているあいだは「真理」だとされる世界です。科学は不変で普遍の真理を教えてくれるものではない。もっともっと謙虚な営みです。科学とはすべて、ある一定の条件下では、必ずある結果が起こる、という因果関係を説明する仮説です。そして最初の物事の観察においても、既にその任意の定式化が、知らぬ間に、しかし不可避に、私たちの認識の一つの枠組みとして作用しています。科学でさえこうなのです。

歴史認識においては、もっと容易に、利害、イデオロギー、個人的・集団的感情が大きく作用して「客観的事実」を作り上げています。そこに「ありのまま」などめったなことでは言えないことは明らかです。いたずらに相手を否定し、自分を肯定するのではなく、「まぁ、向こうからしたらそうだろうなぁ」という共感が前提になければ、結局相手を消し去るまで「真実」は生まれません。ただしそれは「真実」を「見つけた」のではなく、「作った」行為であることを忘れてはなりません。0か1か、というデジタルな「正解」を求めるのは歴史の場合必ずしも正解ではありません。もちろん客観的事実はどこまでも追求しつつ、相手の事情も「共感」し、どこかで「おとしどころ」を念頭に置いた、極めて政治的で人情味あふれる、言ってみれば泥臭い「根回し」のようなやりとりが、実際には向いています。相手が100%悪くて自分が100%正しい、という姿勢では絶対に解決しません。交通事故の保険支払いで、100-0となるのはよほどの場合に限ります。停車している車に信号無視して突然当たりに来たような場合だけでしょう。相手も納得しないだろうから9-1の気分だけど7-3くらいにしとこうか、くらいの根回しが通常は必要です。そこを感情的に処理してしまうと、数万円のために何ヶ月も嫌な思いをすることになる。そうなのです。デジタル思考は機械的に思えますが、感情のまま反応するただの動物的反応です。人間はポリス的動物ですので、もっとあやふやな解決の仕方こそが本来望ましい気がします。さもなくば、行ったこともなければ行く予定もない、自分の財布に何の影響も与えない海から突き出した岩のために、命を捨てることになりかねません。こんなバカバカしいことありません。国益国益と言いますが、自分の財布が、もっと言えば自分の身体が、何より大事だと思うんですが、なんて言ったら、怒られますかねぇ。