慈眼寺 副住職ブログ

縁起

先日「マイタウン奈良」のきたまちエリア特集に慈眼寺を紹介して頂きました。
ウチのような小さなお寺がわざわざ載せていただけたのには、様々なご縁があったように思います。

実は少し前に某大学のゼミの皆様が試験合格や就職祈願で当寺にお参りにこられました。そのうちのお一人が念願かなってマイタウン奈良のスタッフになれたということで、感謝の気持ちを込めて当寺を掲載してもよろしいですか、とわざわざご連絡くださったのです。

しかもその大学のゼミには私が指導しているクラブからときどき生徒を送り込んでいるゼミでして、そのスタッフの方と私の部の少し前の女子キャプテンが同じゼミでお友達というご縁もありました。この女子キャプテンは私の母が亡くなったときも手を合わせにお通夜に来てくれて、それまでずっと泣くのを我慢していた私が、生徒の顔を見て気が緩んだら泣いてしまったという思い出もあります。

仏教とは相対性の教え。因と果のはかりしれない重なり合いを骨の髄まで感じていく宗教です。

自分が色々なところで、どんくさいなりに一生懸命頑張ってきたことが、突然どこかで重なり合うのを見つけられたときには、自分が紡いで、紡がれてきた縦糸と横糸が一瞬見えた気がして、厳粛な気持ちになります。

それにしても、努力して、結果を出した方ほど、感謝の気持ちを忘れないものです。よく、大学に合格した生徒に「先生のおかげです」なんて言われると滅相もないと思います。その子が賢いだけですから。ですが、そういう能力のある人ほど、なぜか他人のしてくれた小さいことでも感謝してくれる。不思議なものです。成功したからこそ感謝する余裕があるのか、人に感謝できるような人間が成功するのか、それは私などには分かりません。ただ一つ言えるのは、自分一人では人間は何も成し得ないということです。自分が100%正しいことも、100%悪いこともありません。人間というものは、そんなだいそれたものではないのだと思います。いつも誰かや何かに動かされてフラフラして、「自分自身」なんていう確かなものはなくて、「自分自身」の輪郭も中身もユラユラ揺れて、コロコロ変わって。

それでも誰かと関係している、誰かの影響を受けて、誰かに影響を与えて、誰かと繋がっている、ということを思うのは、案外悪いもんじゃないな、そんなことをいつも感じています。