慈眼寺 副住職ブログ

写真に映らないものを

今日は娘と、すぐ近くの東大寺の大仏蛍を見に行ってきました。
佐保川沿いにまっすぐ行けばあっという間。

大仏蛍は東大寺の西側の川べりで毎年見られる蛍です。正確に言えばこのあたりの自然環境で蛍が完全に自然に大量繁殖しているわけもなく、保存会の方の努力で放流されたものと、ここで繁殖したものが混ざっているというのが正しい表現にはなりますが、ほぼ街中の観光地で毎年たくさんの蛍が無料で見られますので穴場スポットと言っていいところです。保存会の方々のご努力に頭が下がります。

蛍の写真を載せたいところですが、写真はありません。撮ろうとしましたが携帯のカメラでは撮れませんでした。
まぁ、よく考えれば撮れたとしてもなんだかよくわかりませんし、せっかく目の前に蛍がいるのに、わざわざファインダー越しに見るのも無粋です。

そもそも仏教では「形あるものは必ず滅びる」という諸行無常が根本にあります。修行が足りない私は、相変わらずモノにも自分にもこだわりまくってしまっている情けない状態ですが、それでもカメラを一つのとっかかりにしてときどき色々考えたりします。

「思い出を形にしたい」

という気持ちは誰しもありますし、私なぞよく携帯で写真を撮ってはブログに載せています。そもそもこんなブログ自体がそのときどきの考えを「形にしたい」という気持ちのあらわれです。もちろん仏教ではそれは全て無駄なこと、捨てねばならない執着ではあるのですが、いきなりそこまで誰しも達観できるものではありません。とはいえ、仏教を離れて考えても、形にすることにこだわるあまりに、本来の「見る」という行為、「感じる」ことがなおざりになり、写真に撮るために行動する、ブログに載せるために行動する、ということになれば、経験の純粋性と言いますか、直接性と言いますか、そうしたものが失われてしまうような気がしてなりません。

中学生時代に流行った歌に「ブラウン管じゃわからない景色が見たい」という歌詞がありました。もはやブラウン管のテレビはほとんど残っていないので時代の移り変わりを感じてしまいますが、ニュアンスは世代を超えても伝わる気がします。

娘には、夢中で追いかけて何も写真を撮れなかった、でも楽しかった思い出はいっぱいある、そんな体験をたくさんしてほしい。何を見たとかの記憶はなくても、私たちと一緒にいた時間や、彼女の友達と笑いあった瞬間や、彼女がその目で見た美しい景色や、美しい音楽や、キラキラした瞬間が何層にも重なっていき、彼女の笑顔をどんどん素敵にいってほしい。年をとってシワが刻まれた彼女の顔にも積み重なっていってほしい。美魔女じゃなくてもいいので、年相応の顔をして、いいこともつらいことも、誰かに見せるためではない経験をたくさんしてほしい。

一人の僧侶としてではなく、ただの親として、そんな風に考えています。