礼にはじまり、礼に終わる
「礼に始まり、礼に終わる」
と、武道なんかでよく言います。こんなこと言うといろんな方面から怒られますが、武道やっているから礼がしっかりできるわけでは全くありません。ときに「人」を見て、すなわち相手を選んで礼をしている方をよく見かけますし、それは武道をやっておられる方々でも同様に、そういう残念な方を見かけます。それは結局「力」に対して屈服しているだけであって、「礼」の本質ではありません。
特に難しい本など開かなくても、学校の教科書で十分です。「礼」とは「仁」の表面化したものです。では「仁」とは何か?簡単です。
人はにんべんに二と書く。つまり人が二人いれば「仁」が生じます。
つまり人間として当たり前のことを「仁」といいます。
我々は木や石に接するとのは違う有り様で人に接します。
人には挨拶しますが石にはしません。人は思いやりますが、道路標識の心配はしません。ビルに頭は下げないですし、川のご機嫌を伺いません。
人だから気にかけます。気にかけるから挨拶をします。つまり、礼をします。
人が人に対してごく当たり前に感じる愛情を、そのまま表現したものが礼です。もちろん愛情を感じていない相手もいます。嫌いな人もいるでしょう。憎む相手もいるでしょう。しかし、嫌悪も憎悪も愛情も、人間だから感じます。石や木を憎むことはない。
つまり、相手が人間であると、人間扱いしているから憎むことも愛することもあるわけです。そういう意味では憎んでいたとしても、それは最低限相手を「人間同士」という認識で「人間愛」の範疇に置いていることになる。愛憎は表裏一体と言いますが、それでも不十分です。憎は愛の上にあります。愛している相手でないと憎めない。最低限人類愛の対象にしてから、その上でさらに愛すなり、憎むわけです。
だから挨拶や礼は、好きだからするのではない。人間だから挨拶をしなければならない。心の中で悪態をついてツバを吐きかけるような気分でもいい。とりあえず、そうした感情を隠していることが既に愛です。いえ、そもそもそんな感情を持つこと自体が人間愛です。
ですから、礼は人間愛の発露なのです。
強い相手だけに礼をしてもそれは礼ではない。自分に利益を与える相手だけに挨拶をするのも礼ではない。本当の礼ならば、出会う人全てに行わねばならない。
私はなるべくみなさんに挨拶をしようとしていますが、ときどき挨拶をしても返してもらえないことがあります。ですが、それは自分の礼が不十分なのだと気づきました。返してもらえない程度の礼しかできない私が悪い。きちんと目を見て、「おはようございます」と言う。それでも挨拶をしない人はさすがにいないと思います。もちろん顎を下げるだけの人もいます。取るに足らない相手だと、適当に済ませておられるのかもしれません。それでもまぁ、顎を下げるだけ人間扱いしてくれているのでしょう。私は、人間を愛しているから、顎ではなく頭を下げます。繰り返します。礼とは人間愛の発露です。礼を軽んじる人は人間を軽んじている。そして人間を軽んじる人も人間ですから、自分自身を軽んじていることになる。つまり礼のできない人間の存在は軽いのです。
別に道場に立つ必要もなければ、剣を手に取る必要もない。
我々は朝出会ったときにただの「人間二人」として相対し、互いの人間性を確認しているわけです。
上司にだけ媚びへつらう人間なのか、あらゆる人間に愛情を示せる人間なのか。
その点では挨拶のたびに毎回の真剣勝負が行われている。
「挨」とは「押す」の意。「拶」は「迫る」の意。禅僧が互いに押し迫って禅問答を行い、互いの悟りの深さをはかることが「挨拶」の語源です。
腕力の有無や、段数も、地位も財産も何も関係ありません。人間だったら当たり前。丸裸の人間の重さ深さが毎回問われている。まるで剣先を交え、拳を交えるように。
「礼に始まり、礼に終わる」
その言葉の意味を深く感じながら、明日から「礼」をしようと思います。