慈眼寺 副住職ブログ

育てる、ということ

先日、部員ととある社会人クラブに練習に行ったときのこと。

部員たちが率先して片付けやモップをしてくれてました。
すると、そこの大人の人たちが、

「感心やなぁ。先生がちゃんとしてるんやろなぁ」

と、言ってくれました。

当たり前のことではあるんですけど、彼らがその当たり前のことをキッチリやってくれて、嬉しかったです。
ただ、それは僕が教えたというのは、少し違うなと思いました。
ウチの部員にも気の利かない子はいるし、私自身がそもそも気の利かない、尻の重いタイプです。あの子たちは、ご家庭の教育がよいのか、最初からちゃんとできる子でした。私は関係ないです。

このことで思い出したことがあります。

昔母親が、母と子の教育作文とかなんとかいう作文で賞を何度か取りました。
反抗期真っ只中のかわいげのない息子であった私は、「お母さんの作文なんかで賞が取れんのか。レベル低いな!」などと憎まれ口を叩いていました。

すると母親は真顔で、

「そやで。お母さんの作文なんかヘタやねん。あんたらがちゃんと育ってくれたから、お母さんの教育がよかったっていうことになってんねん。結果論やわ!あんたらのおかげで、お母さん得した!」

と答えました。
正直お世辞にも出来が良いような子供ではなかった私と妹ですが、母親の認識にちょっと驚きを感じたのをおぼえています。

人が人を育てるなんておこがましいはなしだ。誉められたり、けなされたりは全部たまたま、結果論に過ぎない。

誰かに何かを教えるときに、自分の軸のようになっています。

ときどき、成績が出れば自分の手柄、でないと生徒がダメだったなどという先生が、残念ながらいます。かわいそうな人だなと思います。
人が人を育てるなんておこがましい話です。その子のもつ力が、そのまま発揮されるよう、見守るだけです。

クラブでもよく言っていたのですが、私は別に子供だから教えてやるとは思っていません。子供でも尊敬できる人間はいっぱいいます。才能豊かであったり、性格がよかったり、努力家であったり、自分が尊敬できる人間とたくさん触れあえるチャンスがある。呂蒙じゃないですが、しばらく会えないあいだにびっくりするくらいすごい人間になって再会できる人間もいる。そんな人間の成長期に出会える。先生っていうのは、そういうお得な仕事だなと思っています。自分が楽しいだけです。そういう意味で、自分はかなり利己的な教師でありたいなと、思っています。すごい人、すごくなる人、おもしろい人、面白くなる人、にたくさんたくさん出会いたいだけ。ただそれだけ、の欲張りです。

そのかわり、手柄の横取りはナシ。慈眼寺のプリンシプルに他人のふんどしで相撲をとるという言葉はありません。