慈眼寺 副住職ブログ

シャボン玉と語源の旅

シャボン

今日は空いた時間に娘とシャボン玉で遊びました。カインズホームで98円ででっかいシャボン玉を作れるグッズが売ってたので衝動買いしたんです。でっかいのは随分喜んでくれます。

ところで、シャボン玉の「シャボン」って、何なんだ?ってふと思いました。
どうせポルトガル語だろうなと思ったらやっぱりそうで、「サボン」=「石鹸」から来たようです。でも、「サボン」もどっかで聞いたことあるな。うーん、自転車関係であったよなぁ~って悩んでて、思い出しました!
「サボナ」って街がジロ・デ・イタリアでコースになったことがあったと思うんです。関連あるのかなと思ったらやっぱり大アリで、ポルトガル語「シャボン」の語源は、石鹸を作っていたイタリアの「サボナ」なんですね。ちなみに本家イタリアでは石鹸は「サポーネ」。ジョジョの奇妙な冒険での、シーザー・ツェペリの必殺技「シャボン・ランチャー」は、だから、発音はともかく由緒正しいメイドインイタリアの必殺技なんですねぇ。いやぁ自転車乗っててよかった。オタクでよかった。どこまでも繋がっていくなぁ。

語源探しの旅はとても面白いです。基本的に西洋の単語はだいたいラテン語、ギリシャ語、ヘブライ語あたりにたどり着きます。そういう語源を知って言葉を使うと、ただただ単語帳で覚えるよりよっぽど覚えられる気がします。最近やたらとネイティブ至上主義みたいなのありますけど、とことん座学っていうのも、アリだと思うんです。会話ばかりやって「外国人みたい」になるのもいいですが、日本人のまま座学を極めていくと、「賢い日本人」になれるかもしれません。

この手の話を考えているといっつも思い出すのが、西周です。明六社のメンバーであった知識人ですが、彼は本当にすごい。日本語に西洋哲学の単語がなかったため、彼がほとんどの訳語を作り出しています。現在、日常会話でも使われているような多くの単語が西由来の単語です。

技術、哲学、主観・客観、概念、観念、本能、感覚、演繹・帰納、命題、実体、属性、肯定・否定・・・

哲学のみならず、学術的な基本用語のほとんどがこの人の考案によるもの。おそろしいばかりです。
もちろん、彼や明治の知識人の翻訳によって逆に失われた原語のニュアンスというのももちろんあります。しかし、バイアスのない視点など存在しないように、言葉が翻訳される際には必ずノイズが交じるものです。同じ日本語同士でさえ誤解は生じる。それを恐れていてはコミュニケーションはできない。会話とは、常に最小単位の翻訳です。

どこかでこんな説を目にしました。

日本人が英語ができないのは、明治の知識人が頑張りすぎたから。よその国は、学問をしようとすると、対応する言葉がないので、外国語をそのまま使い、学校のなかでは外国語で授業をした。しかし、明治の知識人は頑張って日本語にせっせと学術用語を翻訳したため、日本人は日本語で外国の思想を授業できるようになった。だから日本人は母国語で学問ができてしまい、結果として英語の習得が遅れた。

という説です。まぁどこまで信憑性があるかわかりません。しかし明治の知識人は留学もしましたが、たぶん今の帰国子女なんかよりは変な発音で頑張っていたのでしょう。でもそのぶんめちゃくちゃ日本語で考えていたはずです。

英語が大事、英語が大事と、誰も彼も英会話に行きたがります。そのほとんどは実際には行かないわけですが、行ったとしても、大事なことを見失っていないのかなって思ったりします。留学してLとRの発音が完璧になって、まるで「アメリカ人のように」英語がペラペラになったとしても、肝心の頭の中が空っぽなら、その綺麗な発音で、君は何を話すの?って思うわけです。話したい何かがないのに、綺麗なLとRの練習ばっかりやっているの?その努力の先にあるのは、「アホなアメリカ人」が1人出来上がるだけじゃないの?まずは「賢い日本人」であることが大事ではないの?いつもそう思います。

もちろんツールとしての英語を手に入れなければ、そもそも見聞が広げられない。広い視野を手に入れるためにも英語は必要である。まさしくその通り。とはいえ、あくまでツールはツール。道具に過ぎない。道具ばかり磨いて「マニア」になってしまわぬよう、むしろ拙い英語でも自分で訳語を作り出すような明治の日本人のような人々の方が、よほどフロンティア精神をもったアメリカ的な人間なのかもしれません。剣聖ディモスも「MHなんて手足の延長だ!」なんて言ってましたし。

シャボン玉からはじまった語源の旅。

もうすぐお盆。「お盆」=「盂蘭盆会」の語源であるサンスクリット「ウランバナ」は「逆さ吊り」の意。亡き母の逆さ吊りのような飢渇の苦しみを和らげるために木蓮尊者がはじめた餓鬼への施しがはじまりです。お墓参りお待ちしております。