恩
毎日この猛暑の中、お墓でじっとお墓参りの皆さんを待っています。副住職です。
汗が本当に水のように湧いてきます。サラサラです。着物は基本湿っている状態。
今日は、待っているあいだに「お墓の地図を書いてみよう」と思って書いていましたがコレが難しい!
霊園のように区画整理されていればいいですが、古いお墓も多く、拡張などを繰り返して今の形になっていますので、複雑な配置になっています。
右から左に動くうちにずれたり、現実の距離感と違ってきたり。伊能忠敬の偉大さをとことん感じました。
それはさておき、毎日お墓回向をしていると、お墓参りに来た人と、お墓に刻まれた名前が違うことがときどきあります。嫁入りした娘さんが実家のお墓を守っていらっしゃる場合がほとんどです。
ですが、たまにそうでないケースがあります。
昨日もそのケースがあり、墓回向のあと、住職に「今の人は苗字が変わった娘さん?」と聞いてみたところ、
「ああ、あそこはね、ちゃうねん。実は・・・」
そこで聞かされた話はこうでした。
Aさんは生前Bさんという人に大変お世話になった。恩人だとBさんはAさんに感謝した。その後Aさんの家は絶え、Bさんは恩人Aさんのお墓を守りはじめた。やがてBさんが亡くなり、Bさんの息子さんがAさんのお墓を守る。そのBさんもお年を召して、今お墓に来ていたのがBさんのお孫さん。
おじいちゃんの受けた恩をいまだに孫が返し続けている。しかもその恩人一族はもういないのに、お墓を守り続けている。
これはすごいことです。よく似た事例は、うちのような小さなお寺でも他にもいくつかありますが、三代続けてというのは他にありません。もはや単純に「恩を返す」という概念を越えて、何か「一族の掟」となっている気がします。よほどきちんとおじいさんがおとうさんが言って聞かせているのでしょう。どれほどの恩を受けたらここまで思われるのかと思いますが、存外、「恩人」の側はそれほどのことをしたわけでは・・・と思っていたのかもしれません。
漢字としての「恩」は、「因」と「心」に分解されます。「因」は「布団の上に伏する人」を表し、すなわち「元にする」。「基づく」くらいの意味でしょうか。その下に「心」があります。意味としては様々な解釈がありますが、要は元になったところを心に留めるということでしょうか。つまり、受け手の側に主眼を置いた概念だということは重要だと思います。
以前の桃の話もそうですが、「恩」というのは受けた側に発生するものです。ついつい我々は恩に着せたがりますが、「恩人」はただただ行動するだけでは「恩人」になりません。ただの人です。ある人の行動を、「恩」だと感じる人が現れたときはじめて、行動をした人が「恩人」になります。人の忘恩を謗る人は、ですから恩の何たるかを理解していない。行動は、なされたときはただの行動です。受け手の心のなかだけに「恩」はあるのです。
「恩」の漢字としての意味は古来より「めぐみ」「いつくしみ」。分け隔てなく与えられる自然の「恩恵」。恩と恵はセットの概念なんです。恩恵を与える側が「将来返してくれる」ことを期待するような性格のものであってはならない。それは分け隔てなく、無差別に与えられねばならない。見返りを期待してはならない。この「めぐみ=恵」を人間の感情で表現すれば「いつくしみ=慈」です。慈眼寺の慈。
感謝する心があれば、どこにも何にでも恩も、恵も、慈もある。
そして「恩」とは与えるものではなく、受けるものであること。与えたときには無色透明であること。
与える側が「恩知らず」などと不平を言うようなものではなく、布団の上で大の字で寝るように伸びやかな心が「恩」を生みます。二人の人間が互いに別の方向を向いていがみ合って歪んだ心を持てば、「恩」は「怨」になります。
なんだかゴルゴ松本さんみたいになりましたが、このことを忘れずに、生きていきたいものです。