慈眼寺 副住職ブログ

愚痴とは何か

仏教において最も忌み嫌われ、克服するべき対象とされるのが「貪・瞋・癡(とん・じん・ち)」の、いわゆる三毒です。
あらゆる悪の根源とされ、この三つに囚われた状態を「火の燃え盛る家にいるかのようだ」と表現されたりします。

貪とはすなわち、際限なく欲しがる強欲さ、瞋とは誰かを怒り憎む心、癡とは痴であり、愚痴とも言います。

今日は愚痴について少しだけ書きます。
愚痴は、おろかであるという意味の言葉を2つ重ねます。つまりとてもおろかであるということです。なぜおろかなのか。それは「真理について何も知らない」ということです。もちろん、凡人である我々は真理など知るはずもないのですが、案外「真理」などというものは、それほど高尚でも深遠でもなく、難解な哲学も必要としないのかもしれません。

仏教でいう「愚癡」とは違いますが、一般によく使われる、「愚痴を言う」というのは、誰もがする行為です。ついつい私も愚痴を言います。昔はあんなにカッコよかったおじちゃんが、年をとって愚痴ばかりになって悲しい思いをしたことも少なくありません。誰もがついつい弱音を吐いてしまいます。でも、愚痴を言って何か変わるのでしょうか。

昔、ものすごくハードな職場で働いたことがあり、まぁ、いわゆるブラック企業といって間違いない場所でした。朝は6時に起き、家に帰るのは毎日日付が変わってから。休みは週1回で、残業手当もナシ。ひどいときには28日間休みが全くないこともありました。大学院を卒業したてで世間知らず、その上結婚したばかりの私は、新婚の奥さんにも一日3時間くらいしか起きて顔を合わすこともなく、つらい毎日でした。でしたが、いつの頃からか、自分でルールを決めました。

愚痴は絶対言わない。絶対に言わない。

なぜなら、そんなことを言っても何も変わらないからです。せっかく家でご飯を作ってくれて待っている奥さんに嫌な話をしても仕方ない。そもそも早く寝ないと、もう日付が変わってるので、もう今日中に起きて会社に行かねばならない。寝るなんて生易しいものではなく、毎日布団の上に横たわった瞬間に意識を失ってしまい、目覚ましがなると、もう翌日でした。奥さんと会うわずかな時間が愚痴だけなんて、あまりに悲しいですから。

このように、愚痴なんて吐いても何にもなりません。みんなわかってるんです。でも吐いてしまいたいとき、思わず出てしまうときがあります。愚痴の厄介なところは、それが他人の愚痴も誘発することです。

さっき私が職場の辛さを書きましたが、もっと辛い職場の人はいくらでもいるでしょう。そんな人たちの前で愚痴を吐けば、どうなるか。

「何をそのくらいで!俺なんてもっとなぁ!」

こういう話になります。最悪です。愚痴の連鎖です。

しかしそもそも他人の苦しさと自分の苦しさを比べることに、どれほどの意味があるでしょうか。
誰かにとっては軽い荷物が、別の誰かにとっては重くて耐えられない荷物かもしれません。人前で話すことが苦手な人、地道な作業が苦手な人、忙しくてしていないと苦痛な人、いろんな人がいます。何が幸せで、何が辛いのか、それを他人と比べることには何の意味もありません。

愚痴を吐くことが無意味なのは、自分の苦しみを誰か別の人に苦しんでもらうことが、結局絶対にできないからです。ですから、誰かの愚痴に対してそれを否定することも、愚痴に愚痴を重ねる行為です。無意味に無意味を重ねているだけです。本当に無意味です。

それが無意味なことが分からない。すなわち愚痴なのです。おろかが2つ重なっているわけです。

もちろん、同じ苦しみを持つ人同士の共感やいたわりはとても大事です。それこそが仏の慈悲の心ではあります。慈とは楽を与えること、悲とは苦しみをいたわることです。どちらも共感が根底にあります。

ですが、この場合の共感とは同じ苦しみを持つ者だけで慰め合うような、限定された状況だけを意味しません。なぜなら、さきほど言ったように、厳密に言えば「同じ苦しみ」など、存在しないからです。親を失った人の苦しみはすべて同じではありません。会社の人間関係で困っている人の悩みがすべて同じではありません。お金のないことの感じた方もひとそれぞれ。もちろん、そうした経験を一切したことがない人にもそうした苦しみは分かりません。

経験の有無が問題ではないのです。人はそれぞれ全く別の存在だから、そもそも共感など本当はできない。

人は共感できないという前提にまず立たなければ、共感すなわち他者理解はできないという逆説的な真理がここにあります。

分からないから知りたい。分からないけど聞いてあげたい。分からないけど一緒に悩んであげたい。分からないけど楽にしてあげたい。
つまり慈悲や愛の前提には謙虚さがなければ、ただの自己愛の押し付けに終わります。

他人を他人として尊重することから、本当の意味での愛情は始まります。

愚痴とは真理について知らないこと。真理について知らないこととは謙虚さがないこと。プラトンにおいても賢者と愚者とは、無知の自覚があるかないかによってのみ分けられます。知識や経験の多寡ではない。苦しさを経験してもいつまでも傲慢で自分の世界にふんぞり返っている人はいくらでもいます。そういう人こそ、本当に愚かで、燃え盛る家で炎に焼かれて悶え苦しんでいるかわいそうな人なのだと思います。