竜樹の「空」
先日は「中道」についてお話しました。
この、中道概念をさらに推し進め、おそらくはことばで言い表せる限界まで到達してしまったのが、龍樹(ナーガールジュナ)です。
彼は対象と認識、存在と非存在、生と死、死後の存在の有無など、ありとあらゆる対立する概念を、細かく論理的に分析し、最終的にはあらゆる対立概念の相対性を証明していきます。その中でも、個人的に特に興味深かったのが、龍樹の言語批判です。ある意味ではメタ言語の立場に立つと言っていい彼の言語観については、末木剛博氏の『東洋の合理思想』が最も整理されて理解しやすかったです。ここでは末木氏の議論を簡単に自分なりに再構築してみます。
まず、よく仏教一般についていわれるイメージはこうでしょう。
一般といってもすこし詳しい人なのかもしれません。
1.仏教は無常観を基本とする宗教である
2.仏教は「悟り」という個人的経験を理想として目指す神秘主義である。
さて、この二つを竜樹の「空」という概念を使って説明します。
まず、「空」とは「無」ではない。
「空」とは「否定」を意味する。「空しい」ということです。
端的な「ない」ではなく「~がない」、「~でない」のほうです。「nothing」ではなく「not」なんですね。notはそれ自体で使用できません。
龍樹の証明の基本的な構造は三段階を経る否定と肯定の連鎖であり、末木氏は否定的弁証法、と呼んでいます。
まず第一段階
A 全てのものは滅ぶ、常住不変な実体は「ない」:実体否定
これは裏をかえせば縁起説、すなわち「全ては他者に依存している」、 という相対説、依存説とでもいうべき理論の肯定でもあります。
整理します。
A 全てのものは滅ぶ、常住不変な実体は「ない」:実体否定
A’ 一切は他者に依存し、相対的な存在である:相対性原理肯定
この相対原理が即ち「空」です。
ところが、第二段階でA=「空」は否定されることになります。
Aは命題化され言説となった途端、常住不変な命題となりすなわち、実体化する。
これはA自身に矛盾することとなる。つまり釈迦の「すべてにこだわるな」という言明に対し、「釈迦の<すべてにこだわるな>にこだわっていいのか?」という自己言及的なディレンマがそこに生じます。
ゆえにBではAの否定が行なわれます。
即ち「空亦復空」、「空もまた空なり」です。
B {全てのものは滅ぶ、常住不変な実体は「ない」}もまた、常住不変では「ない」(Aは常住不変ではない)
Bにおいて、Aの相対性原理自体の相対化が行なわれています。
これは言語化されることによる普遍化、抽象化を限定付きで拒否する立場です。
つまり先ほどの例で言えば、お釈迦様の言う「すべてにこだわるな」に、こだわってはならない。ただし、それは、こだわっていい、という単純な否定ではない。ここで否定されている対象は「ことば」の作用だけであり、その言葉で表される内容自体は否定しません。
ワケがわからないかもしれませんが、お釈迦様の「ことば」だけを有り難がって何もせずに信じてはいけない、ということです。実際に、自分が体験としてその境地に達しなければ意味がない。「他人の悟りで悟ることはできない」ということです。
言い換えれば他人の悟りの内容をそのまま普遍化しても無駄であり、 「空」の理解とはことばではなく、「空」の直接体験のみが可能であることを示唆しています。
我々のことばは、その作用によって固定化、抽象化、普遍化ということが不可避に起こります。ですが、それゆえに逆に、本来は存在しなかった問題が言語によって生じてしまいます。しかしだからといって、ことばを捨てることはできない。我々は不可避に矛盾を生むそのことばでしか何も表現できないのだから。他者と何かを共有するツールによって不可避に他者との断絶を生む。龍樹はここに至って「言語の限界」を言語の内側から規定するという困難に立ち向かっています。彼の行ったことは、言語によって言語を捨てることであり、合理による不合理、したがって自らの使用する言語 というツール自体の相対性の確認、という意味に限定されています。
こうしてまったくのアナーキストではない仏教徒は
B:Aの相対性原理もまた常住普遍ではない
という言語の絶対性の否定と同時に、
B’ とはいえ言語を限定付きで使用しなければならない。
というメタ的相対性原理によってAを限定付き命題として確保する。肯定することを行っています。
(※限定付き命題を「仮名」(けみょう)と言う。)
こうして限定付きで現象世界の空を肯定した結果、
C 現象の有と無どちらにも偏向しない中道
という立場に至ります。
この否定的弁証法の構造をもう一度まとめます。中道にいたる総合の過程は、
①A:実体の否定(第1の空)とA’因縁の肯定との総合
②B:言説の実体化の否定(第2の空)とB’仮名の肯定
これら両者の総合を経た結果至ることのできる中道という境地こそが、 最終的な「空」であり、「悟り」の直接体験です。
①は「空」の内容面にかかわり、②は「空」の形式面にかかわる総合ということになります。
こうしてみると極めて論理的なテーゼが展開されており、 仏教を「無常観」「神秘主義」という場合、その内実は十分に検討されなければなりません。竜樹の場合、それはただ考えない神秘主義ではなく、考えて考えて考え尽くしたその先に「それ」を感じることなのだと思います。
「考えるな。感じろ。」というのはよく言われる逃げ口上ですが、龍樹は「神秘的なもの」について語るために、「神秘的でないもの=論理的なもの」の限界ギリギリまで迫って、
「ここが理屈の限界だ!ここから先が悟りだ!」
と、論理と神秘の限界づけに果敢に挑んだ無謀な挑戦者だと思っています。それは釈迦が「語るべきでないもの」とした「無記」についてギリギリまで語ろうとする行為であり、ともすれば釈迦の教えから足を踏み外すギリギリまで踏み込んだ外道スレスレの勇気ある挑戦だと思っています。
つまり何が言いたいかというと、龍樹最高や!ってことです。