「見た目」の暴力的で絶望的な支配構造
先日、NHK「ブレークスルー」の「ユニークフェイスの戦い」という回が、とんでもなく印象に残りました。
http://www.nhk.or.jp/heart-net/tv/calendar/2015-07/13.html
娘がNHKの幼児番組ばかり見るおかげで、私のNHK視聴率が格段に上がっており、そのおかげで、「バリバラ」や「U29」などの社会問題を考える番組に接する機会が増えて、よかったなと思います。
「ユニークフェイス」という運動自体については上のサイトの動画を見るか、下記を読んでもらうほうがよほど話が早いです。
http://www.jinken.ne.jp/flat_now/challenged/2002/02/13/1812.html
とはいえ、このサイトでも、ユニークフェイスを「障害者」というカテゴリに入れているわけです。この問題のある意味での「本質」がそこに見える気もします。
顔がユニークである、ということは、生きる上での機能に問題があることを意味しません。肺に疾患があるとか、足が不自由であるとか、視力が弱いとか、そういう機能障害とは違います。ただ、「顔にアザがある」などの理由で、「醜い」と判断され、生きづらい人生を歩まされる。機能上何の障害もないことがほとんであるにもかかわらず、見た目だけで、人はこうも苦しまねばならないのか、と驚かされます。
ジロジロ見られる。逆に無視をされる。どちらも辛いことです。どう接すればいいのかという正解もない。
「人は見た目じゃない。中身だ。」
と言うことはたやすいです。ですが、そんな人でも「美醜」の判断ができないわけではないでしょう。美人を見れば嬉しいでしょう。いわゆる「イケメン」ならば許されることが、そうでない人物が行えば「ストーカー」扱いされて、下手すれば逮捕されてしまうでしょう。毎日毎日テレビでは見目麗しい男女がCMや番組で出てきます。芸人さんには「デブ」「ブサイク」などの言葉が簡単にぶつけられます。
また、「人は中身だ」と力強く言う人だって、別に人間の中身が見えるわけではありません。正確には「内面を反映していると思われる外面的行動」に注目しているだけです。「外見」の範囲を広くしただけに過ぎない。「ドレスで着飾る女性より、ゴミ拾いをする老婆の方が美しい」という信念を訓練によって自分に課しているだけではないのでしょうか。しかも、その前段階として、「ドレスで着飾った女性の方」の美しさを認めた上で、そこから価値の「逆転」を敢えて行っているわけですから、一般の人となんら変わらない美醜のヒエラルキーに支配されています。「俺は他人と同じは嫌だ」と個性を主張したがる人は、どこにでも必ず一定数いますが、たいていの場合いわゆる「一般」を一回ひっくり返しただけの平凡な価値観であることが多いです。「他人と同じは嫌だ」という考え方自体が「他人と同じ」ありふれたものなのです。マイナー気取りの「こだわり屋さん」たちは、滑稽なほどみんな同じようなこだわり方をします。そういう意味では「人は外見ではない」派も「よくいる少数派」と言ってもいいかもしれません。
「人は外見じゃない」などという言葉は、外見にコンプレックスがある人間にはなんの慰めにもなりません。むしろ、君はくだらないことで悩んでいる人間だと、人の悩みの価値を認めないことにもなりかねません。往々にして、最も人を傷つける者は、一番の理解者のフリをして近づいてきます。
現実問題、外見で人が判断することがあまりに多いから、ユニークフェイスに代表される様々な問題が生じているわけです。別に眉目秀麗な人間が必ず得をしている、ということを言いたいわけではないのです。特別な美男美女であることを求めるだけではなく、「真面目そう」とか、「清潔感がある」とかいう、一般的に「内面」を判断する基準としても、結局我々は「外見」を1つの拠り所としている。「平凡さ」こそが求められる文脈だってある。定食屋さんの看板娘に沢尻エリカは手に余るわけです。ローソンのバイトにアンジェリーナ・ジョリーが立ってたら困るわけです。そういうものまで含めると、我々がいかに外見で人を判断しているか、そして、そこから外れる人々を、いかに罪悪感もなく、容易に社会から排除しているか、そしてそのことに無自覚であるのか、に気づきます。
日本人は古来からそうでした。ハンセン氏病の人々を「前世の悪業の報い」であるとして、差別し、隔離しました。これは仏教思想の生んだ差別であると言えます。もちろん本質的には生死を等しく見る、美醜にこだわらないはずの宗教ですが、歴史的には仏教の思想が一般化、変質してこのような使われ方をされてきた側面は無視できません。宗教の問題を離れても、和歌でも絵巻物でも、美しい姫が讃えられ、鬼婆は悲惨な結末を迎えます。「外見は、内面の反映である」という信念が、意識しないまま、我々には内在しています。
そうなのです。ここが厄介なのです。
「俺は外見だけで人を選ぶ。美人大好き。ブスは嫌いだね。」と開き直っている人は、むしろ問題が顕在化して単純である上、自ら「外見で差別する人間である」という倫理上のマイナスを自ら引き受けています。しかし昨今、外見で完全に差別しているくせに、倫理的にも自己正当化を行うという非常に醜怪なメンタリティーをもった人々が存在しています。
たとえば「こんなに若く見えるモデルさんなのに、○○才なんです!」という最近よく見る人たち。彼女らが決まって言う言葉がコレです。
「本当の美しさは内面から溢れるものなので、普段から自分磨きしています」
彼女らの「自分磨き」とやらを列挙するのは気が滅入るのでしませんが、私はここに、たまたま外見が秀でていることによって、自分の内面まで肯定したいという、彼女らの飽くなき自己肯定欲に、業と言うべきか、一種の悲愴感まで感じてしまいます。整形もアンチエイジングも、それ自体は否定しませんが、行き過ぎれば明らかな心の病だと思います。
話が逸れましたが、斯様に現代社会においては「美しいこと」への過剰な意味づけがなされ、「美しくあること」への強迫観念に似たものが存在しています。おそらく、歴史上最も外見が重要な意味をもつ社会になってしまっています。かつてはそこに「身分」がありました。「気品」や「品格」などという曖昧な言葉を駆使して、結局は財産や家柄の価値を肯定していました。しかし今は、「それはしてはいけない時代」です。学歴もあまり意味を持たない時代です。結局、「平等」な社会で、人が思う存分自分を肯定できるものは「外見」だけになってしまったのかもしれません。そして物事には必ず裏があり、肯定の影には否定があります。誰かの美しさを讃えれば讃えるだけ、そんな気はなくても、誰かの醜さを蔑んでいる。外見への圧力が歴史上最も強いかもしれない時代に、「異形の者」という烙印を押されて生きること、そのつらさに、我々はあまりにも無自覚な気がします。
「別に死ぬわけじゃないんだから、いいじゃない。顔にアザがあるくらい何よ!」
言うのは簡単です。確かに死にはしません。しかし現実問題、この「慰め」の言葉を発する者の顔にはアザがなく、「慰め」られた方の顔にはアザがあるままです。そしてこの言葉によってアザは少しも減りません。一番いい気持ちになっているのは「慰めた側」でしょう。この「慰め」とやらは、なんと醜い行為なのか。
この問題にここまで引き込まれてしまったのは、私の娘の腕に、生まれたときからアザがあったことが関係しているのかしれません。いわゆる異所性蒙古斑というもので、ただ片腕の肘から下の色がやや濃いというだけです。それだけのことです。(実はお医者さんとのトラブルも含め色々あったのですが、お医者さんがたも基本的には善意で行動してくださった結果だと思うので詳細は書きません。)今回の話題の深刻さに比べてあまりに軽い話です。とはいえ、ここには共通する問題もあります。
正直、自分の腕にあざがあったなら、どうでもいいとほったらかしだったでしょう。ですが、小さい娘の腕にあるわけです。そんなところにあざがあるくらいでゴチャゴチャ言う奴がいれば、そんな人こそ非難されるべきだ。当然です。とはいえ、トラブルはないに越したことはないわけです。アザがある人生と、ない人生、選べるなら、そりゃあ、ないほうがいい。わかりきってます。もちろん、アザがあってかえってよかった。アザで差別する人間にならなくて済んだ。そういう考え方ができる人生を歩んでくれたならそれが一番なんです。でも、それがもし顔にあったら?あなたが親だったらどうするでしょうか?
結局色々あって、娘の腕のアザはそのまま放置することになりました。いまだに何の気もなく、「あら?どこかで打ったの?」「ここだけ日焼けしてるの?」と聞いてくる人がいます。「異所性蒙古斑なんですよ」と答えると、「あらそうなの?でもすぐ消えるわよ。私の子のお尻にも・・・」「いや、消えるかどうかはわからないとお医者さんに言われました」「あらそうなの?でも薄いし気にすることないじゃない!」と続きます。
わかりますか?勝手に向こうから絡んできて、謝ることもせずに、かえってこっちに説教をして去っていく他人という構図。
他人の娘の外見に気軽に絡む。基本的に「人と違う」=「ユニーク」であることを、人は見過ごすことができず、そしてそれを自分なりに解釈したり、自己正当化に使ったりしたいものなのです。こうした「悪意のない(つもりの)視線」が何度も反射・増幅を繰り返して、よりつらい立場の人へと伝わていくのです。これは外見の話に限ったことではありません。世の中は、「おたくの息子さん、結婚はまだ?」「結婚して何年?まだ子供はできないの?」などと人のプライヴェートに「悪気もなく」土足で踏み込む人ばかりです。この世界で「ユニークなこと」は「悪」なのです。
結局、我々がなすべきことはなんなのでしょう。
「人は外見じゃないよ!」と「慰める」ことなのでしょうか。
自分が「醜い」と思ったものを逆に「美しい」と思い込むよう「訓練」することなのでしょうか。
自分の娘のアザの、ほんの小さな経験から、答えはシンプルな気がしています。
「そういうアザもあるって、知ってくれ。そして、ほっといてくれ。ジロジロ見るな。失礼だぞ!」