「評論家になるな」
以前、ある部員に「評論家になるな」と言っていたら、その子が別の子に「評論家になるな」と言っていて笑ってしまいました。
ついつい、学年が上がって3年生くらいになると、下の子のアイツをああ育てて、ダブルスをこうして・・・とか、なんかチーム戦略のようなものを考えたりします。そういうことって先輩として大事で、ビジョンを持ってくれるのはいいんですけど、そこで、忘れてはいけないことがあると思っています。
自分も選手だということです。
自分も毎日戦っている。後輩が強くなれば自分が試合に出られない。
そのあたりの感覚を忘れて、他人のプレーを評するようになったら、アカンと思います。
そんなことは自分がプレーできなくなってから、ああだこうだ、ワシの頃はこうだ、ワシが育てた、今どきの若いモンに喝だ!などと、やればいいのです。現役感を忘れたらダメだなと思います。つまり、いつまでも自分が上手くなるんだという向上心です。向上心がある人は、謙虚です。謙虚だから、自分が上手くないと思うから、上手くなろうと思います。幾つになっても、上手くなろうとしている人は謙虚です。自分の時代と今の時代の違いを全く知ろうともしないで、「わしの頃なんかは・・・」とか言うようになったら、本当におしまいです。
世の中には、ありとあらゆるジャンルの「評論家」さんがいて、自分の専門分野以外でもいとも簡単に「評論」してしまっています。しかし、「評論家」になった時点で、もう「現役」ではないのです。現役でない人の情報は古い情報です。そんなものは博物館に入れておくべきもので、せいぜい歴史的価値しかありません。
もう何年も前に、女の子の部員がラウンドのクリアという、回り込みながら強いショットを打つ方法を男子キャプテンに聞いたところ、キャプテンが、
「え?できへんの?そんなの、飛んだらええやん!ピョン!って」
と言って飛んでいて、女の子が困っていました。
「そこで飛べるのはお前たちだけだよ」と思いましたが、彼の「現役感」がすごいシンプルで、ものすごく印象に残りました。(もちろん、その女の子には、あとでこのおっさんがしっかりフォローしました)
そんなんでええねん。そんなんでええねん。ずっと現役でおったらええねん。
そう、微笑ましく思っていました。
あと、聞いた話で、こんなものがあります。
私にここ数年、ずっとバドミントンを教えてくれている50代の方がいて、その人を最近は心の中でだけ、「師匠」と呼んでいるのですが、師匠が中学の頃、当時大学生の全日本に出場していた強い強い人が相手してくれたそうです。その人はのちに中学の先生になるわけですが、その人は、当時中学生だった師匠に、思いっきりジャンピングスマッシュを叩き込みまくり、15-1でボコボコに打ちのめしたそうです。当時そこそこ自信があった師匠は未経験の「大人の本気」に打ちのめされたそうです。
終わったあと、師匠は勇気を出して「なんで、そんなに本気で打たはったんですか?」と聞いたところ、その大学生の答えは・・・。
「え?だって来月試合あるし」
だったそうです。
手加減してやるとか、子供を教えるとか、そういう視点がまるっきり欠けていて、なんというかめちゃくちゃ「現役」で、感動しました。師匠も「先生としていいか悪いかわからへんけど、俺はあのとき、めちゃくちゃスゲェ!って思ったわ」と語っていました。のちに一緒にお酒を飲んだ時に、そのときの話をすると、すっかりおじいちゃんになっていたその人は、「え?ワシそんなん言った?」と答えたそうで、これもまた素敵です。
バリバリ現役で、自分のことしか考えていないエゴイスティックな人。勉強でもスポーツでも、そういう人にこそ、習いたい気がします。もちろん人間関係でエゴイスティックなのではなく、自分の好きなことにとことん打ち込んでいる人。結果的にそういう人が、まわりを鍛えていく気がします。
今日は、気を抜くと、ついつい「評論家」になりがちな自分への戒めのためにこんなことを書きました。