「分かる」
「ちょっと空についてよく分からないんですが、教えてもらえますか?」
という質問をいきなり生徒さんに職場の廊下でされました。
私が倫理担当なので、そういう質問をされたわけですが、女子高生の口から「空って」と聞かれると実に違和感があると言いますか、ちょっとこのギャップ面白いですね。
たとえば帰りの電車で、中観派とか唯識思想について語っているとしたらちょっと面白すぎますね。
「阿頼耶識イミフ!」
とか。
で、もちろん仕事なので空について、ごく簡単に説明したわけですけど、まぁ昼休みしかないわけですから、ざっくりした説明で、「ふんふん、ああなるほど!」とわかってももえたっぽいんですが、でも、よく考えたら、実際には空の思想をそんなにざっくり分かるわけないです。
「分かる」というのは「分ける」ということで、切り分けるということです。
例えば蝶と蛾について「分かる」というのは、蝶と蛾を区別できるようになる、ということを意味しています。とはいえ、蝶と蛾の区別というのは、実際には相当微妙です。「羽を閉じてとまるのが蝶、広げるのが蛾」などと俗に言われますが、実際には羽を閉じてとまる蛾も、広げる蝶もいます。そもそも蝶も蛾も同じ鱗翅目という目に属し、そのうちのセセリチョウ科、アゲハチョウ科、シロチョウ科、シジミチョウ科、シジミタテハ科、タテハチョウ科に属するものを「蝶」と呼び、「それ以外」を「蛾」と呼んでいます。そこには世界中の蝶と蛾を明確にこう、という区別できるポイントはありません。ただ、触覚の形などで、専門家は多くの場合区別が可能です。
詳しくなればなるほど、簡単には説明できなくなり、「分かる」の分け方も細かくなっていきます。でもそんな微妙な区別は一般人には必要ないのです。そういう意味では、我々は本質的には「理解する」という意味では何一つ「分かって」いないのであって、ただただ大雑把なレベルで、自分の目的に沿った形で、適当に「分かって」お茶を濁していることになります。専門家だけが微妙な区別にこだわってひたすら「分からない!」と疑問を持ち続けます。
「分からない」人だけが、理解を深めていくわけです。
ノーベル賞をとったり、歴史に名を残した哲学者たちは皆、「分からない」ままずっと研究を続けた人たちです。
すぐに「分かってしまう」我々凡人は、結局目の前のテストや目の前の給料を稼ぐためだけに「分かって」しまっている妥協した人間なのだと思います。
「分かる」ということにもう一点、昔から気になっていることがあって、たとえば数学の解き方などで、霧が晴れるように、光が射すように、
「わかった!」
と感じる瞬間があります。
アレって何なのかなって、ずっと思っています。
ものすごく気持ちいいし、それが欲しくて勉強などは続けるわけですが、「わかった!」と思ったことが実は錯覚だということも往々にしてあります。
「分かる」ことの本質って、一般的に「内容理解」だと思われていますが、実際には、くしゃみをしたり、涙がでたりするような、何か脳内物質の分泌で、いっぱい考えた努力に対する報酬系として、「よくやったね。このへんでやめときなさいよ」と命令する仕組みなのかもしれません。
そういう意味では、研究者って、こういう報酬系の中毒になってる人なのか、逆になかなか報酬系が機能せずにいつまでも追い求める人なのか、どちらなのかなって、思ったりします。
「分かる」という現象に対しては全く分からない私です。