THE GOD DELUSION
http://natgeo.nikkeibp.co.jp/atcl/news/15/a/120100053/
みんな大好きナショナルジオグラフィックに、衝撃生物クマムシのさらなる衝撃の能力が解明されたと書かれていました。
電子レンジでチンしても、絶対零度でも死なないクマムシですが、なんと!他の生物のDNAをそのまま取り込む能力を持っている!という衝撃の研究です。強殖装甲ガイバーにでてくるアプトムみたい!
まぁ私にはその説の正しさを確かめる具体的な術は、STAP細胞の存在を確かめる術と同様にないのですが、生物進化のデザインの見事さの根底に、こんなデタラメな能力が前提になってしまうと、もはや何でもアリやんか!という気分にもなります。
話は生物学ではなく、この記事を読んで、なぜか私は、ドーキンスの”THE GOD DELUSION”、邦訳は『神は妄想である』という本を思い出してしまい、ちょっと読み返してしまいました。
ドーキンスさんといえば、なんとあの桜井幸子の「高校教師」でも真田広之に紹介される「利己的遺伝子」理論の人。身も蓋もない理論のおっさんなのですが、身も蓋もなさが炸裂してとんでもないのがこの『神は妄想である』です。2006年の本ですが、今読むと味わいがより一層深くてたまりません。
昔この本をJ.ヒックの『神は多くの名前を持つ』の直後に読んだので、そのギャップに失禁しそうになったのを覚えています。この本でドーキンスは機関銃のように、精密で、容赦のない圧倒的な銃撃を「神を信じる人々」にぶち込んでいるわけで、その容赦のなさは圧巻です。トマス・アクィナスもアンセルムスもラッセルも全員まとめてバカ扱い。すべての神を信じる人々に対して「NO!」どころか「××××!(自主規制)」と叫んでいるようなロックな本です。そうですね、放送禁止用語もギターも一切使わないロックですね。なんというか、出来の悪い風刺画とかより、この人が襲われてないのがすごいなと。
基本的な立場は最初の方に出ていて、ドーキンスの引用するH・L・メンケンの言葉で事足りる気がします。
「われわれは他人の宗教を尊重しなければならないが、あくまでそれはその人の奥さんが美人だとか子供が賢いという言い分を尊重するのと同じ意味と程度においてのことである」
本人も言うように、要らぬ侮辱をする気はないが、宗教があまりに大事に扱われすぎているのではないか、というのが彼の主張です。
進化論というのはその誕生時から、キリスト教との緊張関係にあった学説です。地動説でガリレオが異端審問にかけられましたが、ローマ教皇がその行為の過ちを謝罪したのは何年後だったでしょうか?
答えは350年後です。
ガリレオもそんな頃に謝られても・・・という気持ち。
さらに言えばダーウィンの進化論を正しいとローマ教会が認めたのはいつでしょうか?
答えは、「まだ」です。
ここで「でも、キリスト教だけでしょ」と思うかもしれませんが、「神による世界の創造」という観念自体と真っ向対立する概念だということを忘れてはなりません。そもそもユダヤ教とイスラームとキリスト教の「神」は全部同じ存在者をさしています。これは私の考えなどではなく、この3つの宗教が実際に認めていることです。ちなみに仏教では創造という概念はあまり意味を持ちませんが、それでも「人智を超えた存在者」という概念自体に孕む問題は、やはり共通のものがあるでしょう。
私は宗教にかかわる人間だからこそ、宗教というものの持つ危険さ、本末転倒さから目を逸らしたくはないと思っています。仏教だけが宗教戦争を引き起こしていないなどという大雑把な説にも与しません。なぜなら「仏教だけが宗教戦争を引き起こさない」という発想は、結局「キリストの教えだけが正しい」「イスラームだけが神の言葉を正しく伝える」などと言説と、結局「自分の宗教だけを特別扱いする」という意味では同じ論理構造を持っているからです。
話をクマムシに戻しますと、進化論もどんどん進化してきていまして、今や「獲得形質は遺伝しない」という根本的なテーゼも、揺らぐといいますか、「獲得形質」って言葉はなかったことにしよう、ということになってきています。いわゆる獲得形質はRNAによって遺伝するという説まで出てくる始末。個人的には要はマクロな観点とミクロな観点、種全体の問題と一個体の問題を同一視できないということに尽きると思うのですが、このクマムシの外来DNAの問題で、話はさらに複雑になってきて、生物の教科書とかどうするんやろ、と他人ごとながら心配です。
関係あると思って書き始めたクマムシとドーキンスの話だけど、共通点が「生物の話と生物学ライターの話」というとんでもなく薄味な共通点であったことを、心から謝罪します。