慈眼寺 副住職ブログ

センター試験まで、あと三日。

センター試験まで、あと三日を切ります。
受験生は緊張してるような、もうまな板の上に乗ったような、そんな気分かと思います。

慈眼寺のすぐ前にある、奈良女子大でも多数の学生さんが受験します。
本当は看板でも立ててガンバレ!と言いたいところですが、大人しくしておきます。

自分が受験生の頃を思い出すと、本当に幼くて、何も分かっていなくて、ただただ焦って、付け焼刃の知識ばかりで頭をパンパンにして、緊張していました。英語の時間に頭が真っ白になって、「どうすれば後日再試験を受けられるか」を脂汗をかきながら20分間考えていたというパニックぶりでした。当然試験は大失敗でして、もともと行きたかった大学は諦めざるをえなかったのですが、今にして思えば、どっちの大学も大差なく、ちょっと近い分だけ受かった大学でよかった気もします。

まぁ、人生の一大事、である部分もあるように見えますが、失敗したとしても命までとられるわけでもなし。瑣末なことです。
後になってみないと、良かった悪かったなんて分かりません。

ドラフト1位がいつも活躍するわけでもありません。

一大事というなら、我々は常に毎日、一瞬一瞬が一大事なわけです。

今日も一大事。今も一大事。明日も一大事。

一大事じゃないことを少しずつ重ねた結果が、一大事を乗り越えるわけですから、一大事じゃないように見えることが、結局は一大事であり、一大事に見えることも、ほんとうは、一大事じゃないことで出来上がっています。

心穏やかに、なんてことは、とてもできはしないでしょうが、「心穏やかではいられないもんだ」と、折込み済みなら、また違うでしょう。

何もかもがうまくいくことなどありません。人生でそんなこと、一度もなかったはずです。

習字でもそう。最初の一筆を「しくじった!」と、紙をクシャクシャにしては、何も書けません。

最初にミスするのも、あとでミスするのも同じ。最後まで書かないと、結果は出ません。

そしてその文字が美しいか、美しくないかを決めるのは、他人です。
他人のすることは、どうしようもできない。

自分でコントロールできることをコントロールして、あとは判断、結果を待つ。

当たり前のことですが、人間はずっと、こうしてやってきたわけです。

もうここまできたら今の実力を試すだけ。紙も筆も目の前にある状態。
あとは、いつも通りの自分のままで、座るだけです。

座っただけでもう、半分合格ですよ。

センター試験に限らず、人生のあらゆる局面において、予想通りなんてことは、ありえません。

ままならぬものなんだということを自覚しながら、ままならぬものを、ままならぬなりに、乗り越えていく。
センター試験なんて、かなりままになるほうです。

気は抜かずに、でも、どこかで力を抜いて、最後まで、やりぬいてください。

繰り返しますが、命までとられるわけじゃ、ありません。

 

P.S.
私が20分悩んだセンター試験の追試ですが、受けるための資格は、家族の身に危険が及ぶレヴェルです。
点数が悪いなんてことと、比べるのも馬鹿馬鹿しいほどに、そっちのほうが重大事です。
そして、追試験の方が絶対に本試験より難しいです。
タイムマシンがあったら、僕は高3の自分の頭をどつきます。