慈眼寺 副住職ブログ

ギャンブル?そんなに生易しいものではない。

「<不妊治療>「まるでギャンブル」 高額費用つぎこむ40代」

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20160117-00000012-mai-soci

毎日新聞の意図がよく分からない、というか、存在意義が希薄な記事です。新聞というメディア自体の存在意義がもはやないのがよく伝わる記事ですね。

ただただ40代の不妊治療を頑張っている人にとっては、ごく普通の日常を、さも新しい情報であるかのように見せつけているつもりなのでしょうか。実際に治療している人にとっては当たり前のこと、もしくは自分よりずっと負担が軽い人の実例でしかありません。まだ治療をしていない人にとって治療を積極的に始める動機付けにもなりそうもない。

一番意味が分からないのは「まるでギャンブル」という喩えです。

そういうことを発言した方がおられる、というだけで、不妊治療を象徴するような言葉として選ぶセンスが分からない。ギャンブルなら当たれば金銭的負担を取り返せますが、不妊治療は成功しても、さらに養育費がかかるようになります。もちろん、「もう、本当に効果があるのかわからない治療に高額のお金を支払わなくて済む」という意味では、大幅な負担減であり、お金に代えられない喜びを得られるわけですが。それにしても当事者の気持ちを全く理解しない記事だなと思います。

不妊治療に追い立てられる社会のあり方を、ただ出来の悪い記事にするだけでなく、だから、どのような社会に変えたいのか、そのためにはどうすることが必要なのか、を提示する。そんな視点がこの記事には、絶望的に欠けているように思います。

明治学院大学の柘植あづみ教授は、「不妊」そのものが身体的苦痛をもたらすのではなく、「文化的・社会的な理由で人々は不妊に苦しむ」と指摘しています。

したり顔でこんな引用を、学者に責任をなすりつけて載せていますが、この記事自体が、人々を不妊で苦しませる「文化的・社会的な理由」の一つになっています。想像力の足らない、浅はかな記事だと思います。この程度の知識は、インターネットの不妊に悩む方々の掲示板の書き込みを2つほど読めば得られます。1ページ読めば超えられる内容です。

不妊治療が保険適用外であることや、42歳で助成を打ち切られることなど、問題はたくさんあります。訴訟対策か、婦人科のみが増えて、産科併設の病院がどんどん減っています。婦人科で不妊治療が成功したのちの、産科への移行がスムーズに行かないことで不便も感じます。さらには治療する側のお医者さんの多くが男性で、どこまでも他人ごとである傾向があることも大きな問題です。みなさん口では「ストレスをかけないことが大事」とおっしゃいますが、逆にストレスをかけるようなことを平気でしてくるお医者さんが少なくないです。婦人科に限ったことではないですが、電子カルテの時代、最初から最後まで挨拶もしない、顔も見ないお医者さんがほとんど。遠いところを通院してきて、何時間も待たされた上で、そのような対応をされて、ストレスがたまらないと思えるのでしょうか。難関の医学部では、そんなことも習わないのでしょうか。

そうそう。医療に関して、個人的にほかにも思っていることがあります。

インフォームド・コンセントって、お医者さんにとってはただの訴訟対策です。

普段は「患者さんも勉強しないと」と、「先生」らしくおっしゃいますが、いざ勉強して治療方針を相談すると「何も知らないでしょうけど」と頭ごなしに否定されます。本音を言えば「黙って医者の言うとおりにしておけ。」というのが、つまりお医者さんの少なくない方の言い分で、あとで訴えられたら困るから、とりあえず細かい字で「私は責任を取らないよ」という意味のことが書かれている文書にサインをさせるのが、インフォームド・コンセントなのだと思うときがあります。

さらに、二人目不妊の問題も。

一人目をめでたく出産しても、二人目で不妊に悩む方もおられます。
しかしここにも固有の悩みがでてきます。

不妊治療の病院に、子供を連れて行くことは原則禁止されます。子供が欲しくて悩んでらっしゃる方々に、子供を見せつけるような事態になりかねない、というのが病院の説明です。これ自体は納得です。では、一人目の子はどうすればいいのでしょう?おじいちゃん、おばあちゃんに預けられるひとはそれでいいでしょう。しかしそうもいかない人は?託児所を併設しているところもありますが、託児所もピンキリです。「ここに大事な子供を預けるくらいなら、会社を休む」と思うような託児所もあります。

何も知らないただのお坊さんが考えるだけで、問題はこんなにたくさん思い浮かぶのに、長い紙面をつかって、伝える情報がこれだけ。あまつさえ、「ギャンブル」扱い。

私はこのブログで、人の悪口だけは絶対に書くまいと誓っています。

ただし、政治や社会についての「批判」に関しては、ためらうことなく思ったことを書いています。

「批判」とは、「区別」すること。けなすことではありません。良いことを「良い」と言い、悪いことには「悪い」と言う。ごく当たり前の評価、判断が「批判」です。
本来、この「批判」こそが、大新聞様の役割のはずですが、どれだけ読んでも真新しい視点もなければ、取材力に感心することも滅多にありません。右も左も関係なく、自社のプロパガンダに歪められ、スポンサーの顔色だけ伺って、一般人を平気で傷つけて恥じることもない。

悲しいかな、新聞を読んで、こういう認識を改めるような事例に、最近とんと出会いません。玉石混交ですが、「玉」があるだけ、ネットのほうがマシなくらいです。

国語の成績が上がらないと悩む子供に、「○○新聞の社説を読め」なんて言えた日は、もう20年ほど前にとっくに終わっているような気がします。

そんな気分を新たにした、毎日新聞様の記事でしたが、もちろん、ただの坊主の認識を改めさせるような骨太な記事や、お医者さんも大変なんだよっていう記事などを、各社が書いてくれることを、一読者として、切に望んでいます。