他力本願
センター試験に「他力本願」に関する問題が出ていました。
「そんな他力本願な考え方じゃダメだ」
なんてよく説教をされたりしますが、本来、「他力本願」は、
「人間のできることなんて何もない。全ては関係性のもとにおいて生じるものであり、思い通りになることなど何一つない」
という人間の有限性、というよりむしろ、人間が何もできないことを骨の髄まで認識するということを意味しています。
もちろん、宗教的認識と、実務レベルでの怠けぐせを同一に考えるべきではないのですが、本来の「他力本願」の考え方においても、「だから、怠けても頑張っても同じである」ということにはなりません。
「思い通りになることなど、何一つない。だから、こんな何もできない自分にできることは、ただただまわりの縁に、ひいては仏に、感謝せざるを得ない」
これこそが本来の「他力本願」の考え方です。
自分を正しく認識する。正しく認識すれば、正しく行動する。ソクラテスの考え方にも一致します。
厄除けも同じなのではないかなと思います。
みなさん、どこかの社長さんだったり、立派な立場にある方でも厄除けに来られます。
能力の高い人たちであるにもかかわらず、いえ、むしろだからこそ、
「人間ではどうにもならないことがある」
ということを、より痛感されているのかもしれません。
だから、手を合わせる相手が、阿弥陀仏でも、大日如来でも、観音菩薩でも、法華経でも、同じなのだと思います。
人が祈る、という行為には、どこまでも人間の無力さの認識ということが深く打ち込まれている、そのように感じながら、今日も手を合わせています。