「できる」と「できない」
自分のことや、仕事や趣味で出会う人を見て、いろいろ考えたりします。
スポーツなり、勉強なり、何かが「できる」ということ、これを必要以上に持ち上げないようにしないといけないなと。
勉強ができて、東大に入ったといえば、「すごいね」と言われます。
スポーツの才能があって、全国大会にもいけて、有名になれば、これまた「すごいね」と思います。
でも、それにどっぷり浸かってしまうと、だいぶおかしな人間になってしまうなぁと思います。
確かに天に与えられた才能を伸ばしていくのは、大事ですし、自分の子供にも何かの才能が花開けばいいかなとは思います。
しかし、それで、狭い世界で褒められて、調子にのって、まわりが何も見えなくなってしまうのは本末転倒です。
スポーツは、生きるためには必要のないものです。勉強もそうです。生きるために微分積分は要りません。品詞分類できなくてもしゃべれます。
人生に必要のないことにどっぷり浸かってみることは、人生に必要です。
逆説的ですが、必要のないものは、必要なのです。
ですがそれは、生きることに必要のないことに没頭することで、生きるためのヒントを得る、という意味で必要なのです。
そこをはき違えて、手段と目的を取り違えてはならない。
いつもどこかで、「たかが勉強」「たかがスポーツ」という気持ちもなければならない気がします。
もちろん、真剣に取り組んで、人生=サッカーとか、人生=研究という気持ちは、必要ではあるのですが、最後には現実に帰ってこなければならない。
幸運にも、自分が没頭した「それ」に一生を捧げて生活できる身分になれるかもしれない。
でも、「それ」が上手であることと、生きることとは全く別である。
当たり前のその認識は、絶対に忘れてはならない気がします。
昔、「結局受験で行きたいと思うところに、一度も受からなかった」と一言言った時に、母がこう言いました。
「アンタがそんなに偉くならないでよかった。もっともっと調子に乗って、偉そうにふんぞり返るところだった。そんなもんでよかった。」
当時は何とも思いませんでしたが、今になって思い出しました。
そう言えば、クラブの指導で毎年自分が言っていることがあります。
「クラブの上手い奴が毎日練習来るのは当たり前。毎日勝って気持ちがいいから。下手な奴が3年間体育館に来たことの方が、価値がある。」
知らぬ間に、母と同じようなことを言っています。
何かが、「できる」ときにこそ、人間は注意しないといけないなと思います。
「できる」ことは同時に「できない」ことでもあるのだと思います。
「できない」ことで学ぶことのほうがはるかに多い。
子供に「できる」ことを探して、あれやこれやと習い事をさせるより、「できない」ことに、まっすぐに向かい合って生きてほしい、自分の子供にも、他人のお子さんにも、いつもそれを望んでいます。