慈眼寺 副住職ブログ

信じる、ということ

さて、本日は2016年初午の二日前。
ちょうど今日、奈良市の一部地域に慈眼寺の初午についての新聞の折り込み広告が入ったのではないでしょうか。
奈良市全域に広告を入れることはできませんし、同じエリアに毎年入れるわけにもいかず、いくつかのエリアをローテーションして折り込んで頂いています。大きな宣伝はしていませんが、ウェブ上では当HPが慈眼寺の広告の大本営です。

今日は主に台所関係の下ごしらえや、堂内設営のための下準備を行っていました。
並行してやくよけのご祈祷も入りますので、なかなか忙しいです。
明日設営が一気に進み、いよいよ6日の慈眼寺初午厄除け大法要を迎えます。

 

毎年この前々日には恒例の水菜洗いというキツイ作業が行われます。
この寒い時期に、井戸水で大量の水菜を素手で洗います。
お手伝いの方や、日ごろお世話になっている方々に振舞うお食事の下準備です。

毎年この日の水菜洗いにお手伝いに来ていただいている方は、檀家さんでもご近所でもありません。ましてや、お給料を払っている関係でもありません。母のお友達です。

もう母は亡くなってしまったのですが、毎年毎年、母のお友達が、この方のほかにももう一人、お手伝いに来て下さいます。
普通は、どんなに仲が良くても、死んでしまったあとまで義理立ててくれることなんてありませんし、そんなことを期待するほうがおかしいです。

母が亡くなり、台所に関することが何もわからない私と妻で、「この一年でおぼえますので、とにかく一年だけ、今年だけ手伝っていただけませんか」とお願いに行って、快く引き受けてくださってから、毎年来ていただいています。そのご厚意に甘えきってしまっている私です。妻にいたっては、私の母と一緒に働いた時間より、このお二人と一緒に働いた時間の方が、はるかに長くなってしまっています。こっちが義理のお母さんと言ってもいいくらいです。本当に有難いことです。

もちろん、それぞれのご都合もあると思いますし、いつ来ていただけなくなるか、わかりません。当たり前のことです。手伝っていただいていることが、当たり前でないご厚意です。本当に、当の友達が亡くなっても、助けていただけるなんて、こういうことは有難い、本当に、語の本来の意味で「有難い」ことだなぁと、住職としみじみ話していました。

あのとき「この一年だけ」とお願いした思いは今でも変わりません。

もちろん毎年来ていただけたらこんなにうれしいことはないのですが、来てもらうことが当たり前になりそうになると、いつも、自分を戒めています。

 

「この一年だけ」が、何年も続いているだけ。運がいいだけ。

 

そう思って感謝しなければいけないと思っています。

 

人の恩とか。感謝とか。

口で言えば耳触りがよいですが、生易しいものではないです。
最初は感謝していても、それに慣れると、ちょっと期待通りにいかないと、

「裏切られた」

と思ってしまいます。

しかしこんな勝手なことはない。
人がそれぞれ、自分を最優先するのは当たり前。自分だって自分を最優先している。だから、自分の期待通りにいかないと、怒る。恨む。

勝手に「期待」して、勝手に「裏切られる」。

「裏切り」なんて、しかし、本人の心の中にしか、ないんだと思います。
信じることは、信じる人の心の中だけの話。相手は関係ないのです。
勝手に、一方的に信じるわけです。
相手には関係がない。
「こっちは信じてるんだから、お前は俺を裏切るなよ!」と脅すなら、それは「信じる」ではない。

信じる、というのはそういうものではない。

「信じたのに、裏切られた」なんていうのは、信じたうちには入らない。

本当に信じたならば、決して裏切られない。

「信じる」という行為には、他者の行為と無関係に成立するはずです。

宗教に端的にそれは現れます。

「信じる者は救われる」と言いますが、これを「救われるから信じる」とひっくり返せばどうでしょうか?
それは、全く違うものになっている気がします。

救われるか、救われないかにかかわりなく、「信じる」という行為はあるはずです。
「信じる」ことのなかには、他人への期待や要求があってはならない。だからそこには「裏切り」もあってはならない。

すぐに「裏切られた」「ガッカリした」と不平不満が出てくる私です。弱い弱い人間です。

ですが、もう友情を示す相手がこの世にいなくても、毎年友達のために骨を折る人もいます。
「昔助けてもらった」と言って、赤の他人のお墓をずっと守っている方もいらっしゃいます。

「信じる」という行為は、もはや相手がいる、いない、自分が得をする、損をする、といったことをすべて超えた、どこまでも内的な行為なのだと思います。

 

私は本当の意味で、誰かや何かを、信じることができるのだろうか。

そんなふうに思いながら、母のことを信じてくれた人のことだけは、信じられる自分でいたいと思います。

今年もありがとうございました。