今日しかない
最近、覚醒剤関係のニュースが割と続きました。
別に個人の犯罪についてどうこう言うのは全く本意ではありません。
私が印象に残るのは、「元経験者」として語る人々が口々におっしゃることです。
「”完全にやめる”という考えではない。今日一日やめられた。明日はわからない。その継続です。」
これは覚醒剤だけについて言えることでは全くないと思います。
すべての人間にとって普遍的な意味を持つ、人間存在そのものに本質的な考え方だと思います。
根本的に確実なものなど何もない。明日生きているかもわからない。いつ死ぬのか全くわからない。わからないことだらけ。不確かなことばかりなのが人生です。何一つ思い通りにいかない。
普段はそんなことをすっかり忘れて、「人生設計」などということを夢想してああでもない、こうでもないと考える。
しかしそんな「設計」の、そもそもの土台である「自分自身」が、明日にはもう存在しないかもしれない、ということから、目をそらしている。
人間は、必ず死ぬ。しかしそれがいつかはわからない。
人間存在にとっての「死」の確実さとそれがいつなのかという不確実さ。
死の二つの側面が、人間の両側には横たわっています。
有名大学に受かった。一流企業に就職した。美人である。幸せだ。お金持ちだ。家庭円満である。
しかしそこにいつ、覚醒剤や病気や事故や不仲や猜疑心や憎しみや、不幸や、そして・・・死がおとずれるかは全くわからない。
だから、人間の存在の本質を考えれば明白なのです。
人間が言えることは「今」のことだけ。
今日は生きた。今日は病気ではない。今日は覚醒剤をしていない。今日は犯罪をしていない。今日は離婚していない。
永遠の幸せも永遠の不幸せもありえない。「勝ち組」も「負け組」もない。そんなことは、何も分からない。
言えることは、今のことだけ。
そのことを、母が病気になったときに考えるようになりました。
何歳まで生きて、年金をもらって、孫の顔を見せて、老後はこうして・・・
そんなことは、もう考えないようにしよう。
来年は、とか、十年先は、なんて考えないようにしよう。考えて何になるだろう。
「病気が治ったら」って、それはいつなのだろう?いつ違う病気になるかもしれないのに。じゃあ、完治って何なんだ?
今日は笑って過ごせた。今日はご飯がおいしかった。それを重ねて、「今年はよかったね」と笑おう。
そう言い合って、歯を食いしばって毎日を生きていました。
そして母はあっけなく死にました。
そのとき思いました。
死ぬことって、あっけないんだ。
それはつまり、人間が、あっけないんだ、と。
でも、それでも私は、たった一人の母親が死んだというのに、やはりそれは自分のことではないので、しばらくしたら笑ったり、ご飯を食べたりして、毎日を「普通に」暮らすようになりました。「将来はこうしよう」などと設計しはじめました。やはりどこまでも他人事なのです。私は母にはなれないし、他のあらゆる人にもなれない。「私以外私じゃない」のではなく、「私は私以外になれない」のです。可能性が初めから排除されている。
そして人間はある日突然必ず、何の前触れもなく、強制的に、「私以外」にならされてしまう。
それが「死」です。
極限状態に置かれないと、人間はそのことを全力で見ないようにしている。
楽しく笑って過ごしていても、板一枚剥がすとその下は奈落。
ギシギシ揺れる細い板一枚の上を、ゆらゆら揺れながら、足元を見ずに毎日毎日前の方ばかり見て歩いている。
それが人間です。
その生き方を変えることはできないのだけれど、「そういうものなんだ」と怖くてたまらない足元のことをチラチラ見ながら、生きていけたらと思ったりしています。