慈眼寺 副住職ブログ

所得格差か、世代間闘争か

またもやUKの話題です。
今はこのニュースばかり見ています。

【EU離脱】高齢者に怒り、悲痛な声をあげる若者たち なぜ?

当初私は、この問題をブルーvsホワイトの闘争、すなわち「グローバル化で恩恵を受けるエリート層と、移民によって仕事を奪われる中低所得者層との対立」という目線でのみ、捉えていました。

ところが問題はそう単純化できるわけではなそうです。また、地域間での格差も大きい。ロンドンでは残留派が60%以上を占めたそうです。まぁこれは所得格差の様相が強いですね。

ただ、結局この年齢の問題も、「可能性に対する態度」という点で説明できる気がします。
43歳を起点に、残留と離脱派の多数派が逆転するという現象、なかなか面白いものがあります。
つまり低所得でも若ければチャンスがほしい。過ぎ去った人生より残りの人生のほうが少なくなり、新たなチャンスなど必要ない、と考える人は、現状の手厚いUKの社会保障が、自分の存命中だけ維持できればよい。そのように考える人々が、移民を「社会の不安定要素」と考えて、EU離脱を選んだとしても、彼ら自身の選択としては、あながち不合理とは思えません。この記事でも「シルバーデモクラシー」という言葉が出てきましたが、日本でも、消費税増税について国民投票をすれば、同様に若年層と高齢層で大きな差異が生まれる気がします。これはお年寄りが考えなしだという話ではありません。その逆です。賢いからそうするわけです。サッカーの序盤とロスタイムに同じ手で挑む者は愚か者です。ゲーム理論と同様です。両者の利益が最大になる選択が明確でも、人はその選択を選びません。

民主主義という一つのゲームが、それほど夢にあふれた美しいものではないことを、我々は忘れがちです。

「ポピュリズム」という言葉が、俄かに多く聞かれるようになりました。
デマゴゴスと、言っていいかどうかはわかりませんが、政治に「わかりやすさ」を求める傾向は、アメリカでも顕著ですし、日本でもずっとそういう傾向にあります。かといって昔の政治が複雑で高尚だったかと言われれば大きく疑問ですが、メディア戦略で、短時間でアピールできるインパクト政治が好まれる傾向はますます強くなっている気がします。

民主主義という制度は、最高の真理であるかのようにもてはやされがちですが、多数決ですべてを決める意見が、必ずしも最も合理的な判断を下すとは限りません。むしろ、100%の投票率を義務付ければ、結構悲惨な結末を招く確率が高い気がします。

所得格差の問題に限って言えば、では、仕事を奪われる人々は、奪われない仕事を探せばよいわけです。都市化した先進国では、例外なく少子化が進みます。すると移民に頼らざるを得ない。しかし移民には優秀な人もいますので、仕事を奪われます。俺たちがほしい移民はこうじゃない、ということでしょうか。では、どのような移民がほしいのか。結局それは形を変えた奴隷制度を望んでいるだけということになりはしないでしょうか。

奴隷制度は、ある一点を覗けば、合理的で幸せを約束してくれる制度です。ある一点とは、「自分が奴隷の立場になる可能性がある」ということです。自分が奴隷になる可能性が1%でもあれば、だれもこの制度を採用しません。

民主主義とは、このように自分が最悪の立場に陥ったときにどうするか、という視点がなければ、欠点だらけの制度になります。合意形成に時間がかかるうえに、正しい結論を導き出せるとは限らない。むしろ、容易に道を誤る。

民主主義が素晴らしいのは、それが最高の結果をもたらすからではありません。「最悪の事態を修正するチャンスが与えられている」ことにその本質があります。独裁政治は、あるときには素晴らしい。英明な君主が何もかも最高の選択を選び続けてくれるなら、独裁政治こそ最高の制度になりえます。ところが、独裁政治が最悪なのは、英明でない君主が現れたときに、彼を追い落とすものが誰もいない、ということ。そして、どんな英明な君主も、英明であり続けることは決してできない。

つまり、民主主義が選ばれるべき理由とは、相当に控えめな「リスク管理」という一点にあることになります。

どんなに有効なメソッドをもった政治家でも、全知全能ではなく、いつかは時代に捨てられる。老いる。失敗する。そのとき、彼を、優秀でも何でもない人間が、追い落とすことができる。その一点に関してだけ、民主主義はほかのあらゆる制度に対し、卓越した合理性を獲得しているわけです。

してみれば、ポピュリズムもまた民主主義のあるべき姿。
国民の過半数が誤った選択をするなら、「ほらね」と納得してもらえるまで、あやまちにつきあってあげる義務があります。まわりくどい。実にまわりくどい。

UKの選択を大英帝国の終焉と嘆く人もいますが、デモクラシーの勝利ともいえます。経済的損失が何兆円あったとしてもです。

むしろ、何兆円の経済的利益を得ていても、「この人なら大丈夫そう。有名だし。」と何も考えずに一票を投じて、権力者を監視しないような国民のいる国があれば、その国の民主主義はすでに終わっている。いわんや投票率が40%台であるような国は、進んで奴隷になりたがる人々の群れ集う国だということになります。

今回の事例でよくわかったのではないでしょうか。

選挙とは、闘争である、と。

選挙とは常に、ブルジョワジーとプロレタリアートの階級闘争であり、世代間闘争であり、地域闘争であり、宗教闘争であり、イデオロギー闘争なのです。

決して人を(直接的には)殺さない闘争。

そういう厳粛な行為をしている、という自覚をもって、だれの勧誘にも耳を貸さず、自治会長が居眠りをしているどこかの体育館で、鉛筆と紙だけで戦う権力闘争に臨むべきである。

そう気持ちを新たにして、通りを走る選挙カーの騒音に、暗澹たる気持ちになる、副住職であります。

まぁ、こういう人たちを定期的に失業させて緊張感を持たせるっていうだけでも、十分価値がありますからね。