弱さ
ちょこっと考えてると、マンガの中に強い敵が出て来る。その次にそれよりも強い敵が出て来る。 その次はそれよりも強い。…となると最後はいったいどうなっちゃうわけですか? 宇宙のハテを考えてるみたいになる。それと世の中を見渡してみると本当に 『強い』人っていうのは悪い事はしない事に気づく。 「悪い事をする敵」というものは「心に弱さ」を持った人であり、真に怖いのは弱さを攻撃に変えた者な のだ。
これは、『JOJOの奇妙な冒険』というマンガの作者、荒木飛呂彦さんの言葉です。同作の第46巻の裏表紙の「作者近影」に書いてありました。「JOJO の4部の敵が弱くなった」という読者の指摘に答えたものなのですが、当時から印象に残っていたのを覚えています。この言葉は、JOJOの掲載誌であるジャ ンプに代表される「強さのインフレ」に対するアンチテーゼでもあるのですが、それは今回はさて置き。
毎日毎日、目を覆い、耳を塞ぎたくなるような事件があります。
たくさんの悲惨な死と、たくさんの下らない原因。
失われたものはかけがえのないものばかり。引き起こしたのは下らないものばかり。
引き起こした結果の悲惨さと、原因となった人間の矮小さが、あまりにもアンバランス。このつり合いのと れていなさに、私は愕然とします。一方にけがえのない命と尊厳を乗せながら、もう一方の秤に乗せられているものは、どこまでも愚 かで、幼稚で、下らない。
バランスがとれていない。
この感覚が、あまりにも強くて、怒りで頭が真っ白になるほどです。どうなっている。なぜこうなる。なぜこんなことになる。
つまりそれは、「弱さ」こそが、何より恐ろしいという、上の真理なのだと気づきます。
悩んだり、訓練したり、考え込んで悪はなされるのではない。
何も考えていないから、ケガをさせる。やったこともないから、加減を知らない。行き当たりばったりだから、制御できない。
「これにて知るべし、何事も心にま かせたることならば往生のために千人殺せと言わんに、すなわち殺すべし。しかれども一人にてもかないぬべき業縁なきによりて害せざるなり。わが心の善くて 殺さぬにはあらず。また害せじと思うとも百人千人を殺すこともあるべし」
宗派は違いますが、『歎異抄』の中にある親鸞上人の言葉です。私はこの言葉がすごく好きで、若いころから何度も繰り返し読んでいますが、人間の有限性というもの、無力さへの痛烈な認識がそこにあり、そして無力さゆえに人は悪を為すのだいう逆説的な真理があります。
他者と比較して自分が優れていると思いたがる人は、弱さの海に溺れ、流され、ときには取り返しのつかない悲惨さを生むでしょう。
弱さを克服するために、強くなるのではない。
「自分が弱い」ということを認識した者だけが、強くなることができる。そして、強い者は、何もしない。
一番強い人が、一番平凡な人生を送る。
右手にJOJO、左手に歎異抄。
浄土宗のお坊さんとしてそれは如何に!と怒られるのを承知で、今日はそんな気分で、悲惨な世界に立っています。