philosophy
毎日毎日、フライパンで焼かれるような暑さですね。
お墓参りの一番多い時期ですので、普段ヘルメットで焼けていないおでこの上の方が真っ黒です。
そんな話はさて置き。今日は自転車の話ですが、自転車だけではないお話。
今日、街の小さい自転車屋さんで哲学者に会いました。
今日その人と、「オーダーメイドのクロモリフレームこそ至高」だという言う人がいるが、どう思うか?」という話をすると、「いや、そうとは限らない。」という答えが返ってきました。その人はクロモリのオーダーフレームを愛しているので意外でしたので、真意を聞いてみると、そこでの会話は自分にすっと入ってくるものでした。以下に会話の要点をまとめますが、あくまで私が消化できた限りでの話だということはお断りしておきます。
客がこうしたい、ああしたい、と腕のいいビルダーに頼む。客の要望を100%取り入れたフレームができる。そのフレームは世界の一つの、その人にとっての最高のフレームである。
しかし本当にそうなのだろうか。
そもそもなぜ、その客はそのビルダーを選んだのか。そのビルダーの作るフレームの乗り心地に惚れたからのはずです。それはそのビルダーの作るすべてを受けいれるに等しい。体重・身長・乗り方・・・etcそういう初期条件を与えれば、そのビルダーの導き出す答えは自ずと決まってきます。それはそのビルダーの「味」とでもいうべきでものですが、そんな曖昧な表現を使わずに言えば、そのビルダーの「公式」に数値を入力して「こたえ」を出す作業と言えます。
そこに客の要望を入れ過ぎてしまえば、ビルダー自身の「味」、「公式」を損なってしまうことになりかねない。たとえば私の要求をすべてカザーティに入れてもらって作ってもらったフレーム、それは果たして「カザーティ」なのだろうか。
もちろん、こちらの要望を聞いてもらうことは必要です。ですが、とことんレースで勝つためのフレームを作るビルダーさんに「そうでない要求」をすべてのませると、もはやそれはそのビルダーに頼む必然性が失われている。
腕のいいシェフに何もかも自分の好みを伝えて作ってもらう料理のようなものです。それはもうそのシェフの料理ではないですよね。シェフの腕に惚れたなら、「お任せ」が「こたえ」に近いはず。
そう考えれば、自分が心底惚れたビルダーに、自分の体重・身長・乗り方だけ伝えて、「あとはお任せ」が実はあるべき姿なのかもしれません。それで満足できないなら、「公式」の選択が間違っているわけです。フルオーダーが至高とは限らない。ある意味では、「吊るし」が最高かもしれない。
私は常々、「こいつは哲学者なのではないか」と思っていたのですが、やはり私の直感は間違っていなかった気がします。そんな気取った言葉は何一つ使わない人なのですが、そう思っていたのです。
よく雑誌の煽り文句なんかで「〇〇のモノづくりの哲学」とか書いてあって、僕はああいうの、大嫌いなんです。マスコミらしいなぁ、と。哲学っていう言葉を、金メッキか何かのように思っている。モンドセレクションみたいに中身がない。ああいう「哲学」の使い方をする人は、僧侶としてではなく、個人として軽蔑します。誠実さがないんです。
私は、大学で10年くらい西洋哲学を勉強したのですが、自分が哲学向きではないということを確認しただけの日々でありました。それはともかく、そこで出会った研究者の方々(哲学に限りませんね。歴史学でもそうです。数学でもそうです。)を見て、彼らに共通することがありました。
彼らに質問をすると、その答えが実に歯切れが悪い。
「つまり、こうですか?」
「いや、そういう表現をするならそう言えなくもないが、しかし・・・」
「では、こういうことですか?」
「それもまたその場合はそうでもいいが、別の問題も出てくる。」
じゃあどれやねん!と、実に煩わしい。しかし自分が勉強すればするほど、彼らのその歯切れの悪さの意味が、分かるようになりました。
たくさん勉強してたくさんのことを知れば知るほど、いい加減なことは言えなくなる。あの場合はこうだし、この場合はこうだし、まとめればこうだけれど、一概には言えないし、この立場に立てば全く別の答えが・・・なんてことになる。
なぜ彼らがこうかと言えば、つまりそれは「知に対して誠実」であるからだと思います。
耳目を引くキャッチコピーは飛びつきやすい。分かりやすい表現は理解しやすい。しかしそれで失われるものもたくさん、ある。
思考が相手にしている対象がシンプルではないものなのに、無理やりシンプルにしている。それは対象を知ろうとする態度としては「不誠実」です。素人は「一言で言えばどうなるの?」と「ポイント」を聞きたがりますが、「知ること」に対して誠実であろうとすればするほど、「ポイント」なんて言いきれない。「一言で」なんて言えない。事柄が単純ではないのに単純化するのはただの不誠実であり、ときには罪ですらあります。
例えば警察の見込み捜査。ストーリーありきの取り調べ。
政治家の適当な演説。「無駄を省く!」と言って目に見えるところを絞って、裏でガッツリ無駄金を作っているかもしれません。
マスコミの売らんかな売らんかなのキャッチーな見出し。最初から作ったストーリーに当てはめるだけの「批判記事」。権力側も反権力も、結局は同じ穴の貉です。自分たちの「ストーリー」に沿って「敵」を作っているだけ。
「批判」「評論」より楽なことなんてありません。「評論家」なんて最悪の称号です。たった一つでも不都合を見つければそれで全体を否定できる。責任がないからできることです。「専門家」と「部外者」の顔をうまく使い分けて、無責任な言葉を垂れ流す。最終的に「印象」だけが商売相手。ファッションの「トレンド」やらと一緒。中身は空っぽで「印象」だけがあればよい。丁寧な取材?どんなに時間をかけても、結局は自分の「ストーリー」に沿ったところを探す「ネタ探し」ですから。科学実験で不都合なデータを「誤差」と言い切ってしまえば、科学の進歩はない。もちろんこの「誤差」という概念をどう捉えるかで科学哲学のネタになるのですが、今回はそれはさて置き。
ちょっと私怨と先入観と言い訳のようなことを書きましたが、雑誌やネットの「クロモリロードはよくしなって乗り味がいい!」とか「フルオーダーこそ最高!」とか、「軽さは正義!カーボン最高!」とか、そういう煽り文句はすべて、しかるべき業界のスポンサーがあっての、そして雑誌が売れるための煽り文句であって、知に対する誠実さとは無縁のものなのです。むしろ「市場原理の拝金主義」という公式ならすぐに答えが出るシンプルな事柄です。
世界はシンプルではないのです。
「生き方を変える10のことば」なんてないのです。「90分でわかるヘーゲル」とかないのです。もちろんそんなことみんな分かっているのです。面倒だから、なんとなーく、浅く広く、人と話を合わせるためだけの、「ちょっと考えてますよ」的なポーズをとって、「深いなぁ~」とかお互い言い合ってたいだけの共犯関係です。
ですが、知に誠実な人は、それをしない。だから話が長い。面白くない。眠くなる。誠実だからです。哲学書が読むのがしんどいのは誠実だからです。本当に誠実に考えている人なら熱中して読めるのです。「難解だなぁ」というポーズだけ取りたい人は一生読まなくていいのです。金持ち父さんだかかあさんだかを読んでればいいのです。
本当はいいことばかりじゃない、楽しいことばかりじゃない、シンプルな答えも出ない、でなくてイライラするだけなのが人生です。
面倒なことを全部捨てて、分かりやすいストーリーに当てはめる。すごくスッキリする。でもそれは公式ではなくて、ただの「思考停止」ですよね。
私も同じです。授業中「これだけ覚えたらOK!」とか言ってますもん。そんなことない。それでOKだったら俺の授業何やねんて話。もちろん「これだけ」を言った後も授業は続くわけです。優先順位の問題です。そこは印象操作してとにかく起きて聞いててもらうための煽り文句。マスコミと同じですね。
しかし職人さんはそうではない。「モノ」という形でハッキリ答えが出る。ペラペラしゃべるのが大事ではない。「答え」を語るのが仕事ではない。目の前の作品で「どうや?」と語るわけです。印象操作に終わらない、ごまかしのきかない答え。雑誌やテレビがどんなにメッキを重ねようが、彼ら自身の「公式」は揺るがない。売れる売れないは「評価」の問題です。だが、職人は「モノ」に「誠実」です。
今日の自転車フレームに関するやりとりには、そのおっちゃんの「誠実さ」が見えた気がしました。だから「哲学的」だと思ったのです。全然儲かってないですが、この自転車屋のおっさんは哲学者、は言い過ぎだとしても、「哲学研究者」のにおいがぷんぷんしました。ママチャリのタイヤを替えながら、手を真っ黒にして語る言葉は誠実でした。
研究室を離れて10年。久しぶりに、いいにおいをかげました。