慈眼寺 副住職ブログ

表現

中身があって、それを表出する行為がある、そう思われがちですし、実際にそうであるとも思います。

ものすごい個性的な絵を描く人はそのように世界が見えているのかもしれません。

ただ、それとは別に私がずっと、ほぼ信念のように思っていることがあります。
それは、生きることは表現することである、ということです。

感情や思考を、言葉や、行為で外に表現する。

「中身」は外からは分からないわけですから、畢竟他人にとって意味を持つのは「外側」だけです。
で、あるとすれば、人間とはある意味では、その人間の表現に尽きる。少なくとも他人にとってはそうです。
さらに言えば、表現してみてはじめて、自分で自分の考えや感覚を認識できる部分もある。
このことまで含めれば、人間とは表現である、と言っても過言ではありません。

してみると、人と同じような表現しかしない人間は、自分が何者であるかについて、追求する気がない人間と、言えるかもしれない。
別に言葉巧みに修飾語を重ねて食レポをせよというわけではない。表情でも、「間」でもなんでもいい。
ただ、言葉というのが、一番手っ取り早い自己表現の手段であることは否めない。

人を人たらしめるものが言葉である、というのならば、人は、「自分自身の言葉」を持ち、他者と自分は違うのだ!と叫び続けることでのみ、人間でいられる。

別に無理やり個性を演出して不思議ちゃんになる必要はなくって、自分の中の感覚を、自分が感じたままに、ありあわせの表現に頼らずに、常に感じたままに、よりもっと近くに、と「自分」に近づいていく。奇をてらってわざと変な物言いをすれば、それだけ「自分」から遠くなるのだから。

そのように考えています。

これは、誰の影響でもなく、自分で考えたことだと、思っていました。

ところが今日夕食のときに、父が突然思い出話をはじめて、私の聞いたことのない話をしました。

母はよく、私が、たとえば「きれい」とか言いますと、

「どうきれいなの?どう感じたの?ただ”きれい”じゃダメ。どうきれいなのか、何みたいなの?」

と、聞いたそうです。

「ただただきれいじゃダメ」

まさに私の考えている、つもりだったことです。

よくある話ですが、この世にオリジナルなどなくて、誰もが誰かの影響のもとに生きている。

仏教の「縁起」そのものの真理ですが、そんなことを、私も知らない母の言葉から気づくなんて、びっくりしました。本当に驚きました。

今自分が今あるようにして存在している一切に、誰かの何かが含まれているのだな。

そう考えると、「自分らしさ」にこだわっていたことさえも、滑稽に思えてきます。

そのようにして、まわりぜんぶをひっくるめて、影響を受けて、影響を与えながら、つながりあって、まるまるひとかたまりになり、たまたま私の口から「言葉」が出てくるのだな、と。

今日はそんなことを思っていました。