慈眼寺 副住職ブログ

シン・ゴジラ

先日、久しぶりに映画を見てきました。
子供ができてから滅多にこんなことはできないので、当然夜中のレイトショーを一人で。
まことに遅ればせながら、シン・ゴジラ。いやしくもオタクのはしくれを名乗るなら、見ないわけにはいきません。

ネット上では様々な意見やネタバレが舞い飛んでいましたが、それを見ないように慎重に生活していましたが、ようやく「その日」を迎えました。
私の信用する東西のオタクの巨匠が「見るべし」とおっしゃっていたので、そこは絶大な信頼をもってガラガラの映画館に座りました。

もうさんざんネットで議論されていますので、完全に乗り遅れた感じですが、いいです。いいですよ。シン・ゴジラ。
たぶん日本中の特撮ファンが、

「そうそう!こういうの!こういうの見たかったのよ!」

という「そういうの」がテンコ盛りで実によかった。

事実、「庵野がゴジラ?んなもんに手ぇ出してないで、エヴァ早くやれよ」と言っていたオタクたちがこぞって、

「もうエヴァはいいや」

と安らかな顔で昇天していきます。

 

で、今さら感がすごい感想です。

これはニッポンのゴジラ。むしろニッポンそのもの。

庵野はゴジラでただただニッポンを描いた。
会議会議で指揮系統が何より優先される肩書社会を。とびぬけた個人の活躍を許さない横並び社会を。
そして災害に対して肩を落とし、黙々と列をなして避難するその忍耐を。
ゴジラは断じて主役ではなく、ハセヒロでも石原さとみでもなく、ニッポンを描いた作品。
まさに「ニッポン対ゴジラ」。ポスターの言葉が過不足なく表しています。

そもそも特撮のチープな着ぐるみを暖かい薄目で見つめて喜び、原爆への怒りと対米追従の情けなさを飲み込んで、ずっと日本で愛されてきたゴジラ。ずっと愛されてきたのに、でてくる作品がどれもこれも「コレジャナイ感」がすごいものばかり。「ゴジラ」という「荒ぶる神」への相応しい器を差し出せないまま、日本人は忸怩たる思いで暮らしてきた。そんな昭和からの宿題を、庵野がやった。やり遂げた。

正直、オタクとしての「シン・ゴジラ」の感想なんて、一言で十分。

「庵野!やったな!ありがとう!」

これ以上でもこれ以下でもない。

ただ、「いちオタク」を離れて、何か、と言うと、また色々面倒なこともある。
それはとりもなおさず、そもそも「ゴジラ」に内在していたものに、2011年以来取り込まれてしまったモノについて言及することを意味します。

一作目の誕生以来、ゴジラは元来が「厄神」としての意味合いが強い。台風、地震、戦争を暗喩し、核爆弾によって誕生しています。

災厄と放射線。

これを2011年3月11日以来語れば、もはや我々日本人が他の何かを想像することは不可能です。

今回の「シン・ゴジラ」は、隠しようがないほどに、そして隠す気もさらさらないほどに、「3.11」でありました。もっと言えば、「福島第一原発」でありました。
評論家なんて要らない。これを指摘したところで、何一つ自慢にもならない。見たまんまを言うだけですから。

冒頭の、ゴジラ第2形態が、瓦礫やボートを巻き込みながらうねりをつくって遡上するさまは、悪夢のようにあの光景を思い出させます。ゴジラによって破壊され尽くした町。私たちが毎日毎日絶望的に眺めたあの景色。ゴジラじゃない。ゴジラじゃない。

私たちはアレを知っている。

そしてラスト。アルマゲドンなら超盛り上げて、手に汗握るアクションで二転三転させて最後にスカッとさせるような展開で行われるのは、巨大放水車による液体注入。決死の覚悟で、許容線量を大きく超えた死地に赴く人々を、涙を流して見送ったあのときと、醜悪なほどに鏡合わせの映像。

日本人がこの映画を見る予備知識は世界に比類ないでしょう。「シーベルト」という単位を、何の説明もなく、受け入れてしまえる日本人。「あのとき」を過ごした人間に、残酷なほどにリアルに「あのとき」を追体験させる。

違うのは2011のあの放水作戦が、すべて全くの無意味であり、無意味であることをそれに従事する誰もが分かっていたにも関わらず行われたこと。最初から「成功」も「失敗」もなかったこと。

ゴジラではそれが「成功」している。そこだけがファンタジー。そこに噛みついている人もいるけれど、「ファンタジー」があれをしなくて、どうするのか。

ファンタジーとは、1つの嘘をホントっぽくするために、ウンウン唸って頭抱えて99の理屈をこねるジャンルです。
作り話だからと言って全部ご都合主義にしたら、何にも楽しくない。

その点ゴジラはリアルでした。

単なる町並みや鉄道のリアルさだけでなく、会議の意思決定の遅さとか、日本的な集団、階級原理が全てに優先され、「組織への帰属」が美徳とされ、個人が活躍できないようになっている社会であることが、もう悪趣味なまでに戯画化されていました。

「アレは、地下の噴火とじゃなく、生物じゃねーの?」

とか、閣議で言い出す奴がいたら、現実には確実に入院措置です。その一つのどでかい嘘をつき続けるために、気が遠くなるような「リアル」を積み上げていきました。そして、その「最後」もまた、ファンタジーでした。

「ゴジラ」という嘘は、「物語」のための嘘。

「ゴジラの凍結成功」という嘘は、「ニッポン」のための嘘。

ニッポン中が涙した「茶番」を、物語の中だけでも救う、一つの嘘。

批判はあるでしょうが、あそこを超人的な「誰か」の活躍によって解決すれば、「ニッポン」のリアリティーを損ねる。あくまで組織が、普通の人間たちが、一致団結して、戦った結果の勝利、という。そんなが、必要だった気がします。

2011のニッポンに与える、ゴジラの福音。

エヴァンゲリオンでは最後の最後の土壇場で、「気持ち悪い」と言い放って、すべてを拒絶した庵野秀明が、今度は救ってみせた。

気まぐれか。年を取って丸くなったか。

理由はわかりません。

ただ、救った。

ただそれだけのように思います。

それをご都合主義と言うのは構わないが、右翼的だとか、そういう色分けでしか語れないは、すこしもったいない気がします。

 

追伸。
ところで、「コレで喜ぶのは日本人だけ」とディスった留学生のレヴューが取り上げられていますが、「それで何がアカンねん!」という気持ちと、「アメリカ本国のオタク舐めんなよ」という気持ちが両方起こってきます。アメリカのオタクは日本人もビックリするくらい日本特撮やアニメにどっぷり漬かっています。ついでに「専門用語が多すぎる!」とかいう文句に対しては、「じゃあアンタらに分かるように作ったらファイナルファンタジーUSAみたいになるけど、いいのか?」と言いたい。

そして、上記の理由で、オタクでない日本人でも、3.11に対するカタルシスで目をそらせない。

つまりこの映画を楽しめるのは「日本のオタク」→「非日本のオタク」→「非オタクの日本人」→「非日本人非オタク」の順番になります。外国人の非オタクにとっては非常にストレスのたまるうえに、アメリカ人ならなおのこと名指しでジャイアン扱いされるので噴飯もの、かもしれません。そして、言うに事欠いて、「サトミイシハラの英語の発音がひどい!」とか言い出すのでしょう。

英語の発音だけできる人なんて、世の中に何十億人いるというのか。サトミイシハラがやったのは「カタカナ混じりのいけすかん日本語を使う、いかにも私デキる女ですよ!という海外経験豊富な女性」というマンガみたいなキャラなんです。アメリカ人を演じているわけじゃない。「日本人から見た日系3世のエリートキャラ」なんです。中川家礼二の中国語みたいなもん。「ガッヅィラ!」なんてネタでやってるに決まってるじゃないか。アンタたちが七三分けのメガネのサラリーマンに病的にお辞儀させて喜んでるのと同じですよ。そもそもサトミイシハラは進撃の巨人まで引き受けちゃう何でも屋さんですよ?しょうもない揚げ足取りをしなさんな。「マンガみたいなネタキャラ女優」させたら、彼女はプロフェッショナルですよ。Do you understand?