格物致知
先日、西山奈良門中の若手で恒例のお経練習会を行いました。
講師役はいつも同じで、聲明=お経の道で最前線で頑張ってこられてきた私より一つ年上の方です。
今回はあの節がどうこう、ではなく、根本的な発声のところについて、ご自身が独自で色々研究されたやり方を図解込みで説明していただきました。この方は発声練習のために、オペラ歌手の方ががやるベルカント唱法のところで何年も学ばれて、そのエッセンスを聲明に取り入れるなど、意欲的な試みをなされています。もちろん、お経とオペラは違うわけですが、「声を出す」という行為について、共通する部分はあるものです。
お経の世界というのは、内容はともかく、その技法自体は結局は個人技に集約される部分があるように思います。学校で習うような教科書はなく、もちろん楽譜的なものもありますが、その解釈はひとそれぞれ。結局は耳で聴いたものを真似をしていく、という、日本の伝統芸能に近い覚え方をしていきます。当然長い時代に「解釈」が変わってしまい、ああでもないこうでもないと、後の世の人は試行錯誤するわけです。流派や地方による枝分かれもこうして起こっていきます。今でこそ、録音、録画技術がありますので、かなりそのズレは修正できるようになったわけですが。
それでも、根本の「声」に関しては、「生まれつき」の能力と、「味」というようなあいまいな概念である種諦められてしまうわけですが、そこのところを埋めるボイストレーニング的なものが確立されておらず、毎日お経をあげろとか、耳で覚えろ、腹から声を出せくらいの大ざっぱなもので終わりがちです。
しかし今回は人体の図解入りの細かいもの。同時にただの解剖学でもなく、「イメージ」を最大限に活用する方法です。
「イメージ」というものは人それぞれ違いますし、「イメージ」は科学的ではない気がします。
ですが、スポーツでもさんざん「壁をつくれ」だの、「○をイメージ」だの、様々な「イメージ」が利用されます。
詰まる所、「声を出す」という行為は、まぎれもない「身体技法」なのだ、ということを我々は忘れがちです。
当たり前すぎて分からないのですが、「歌」を歌うことは、当たり前の日常行為ではない。わざわざ人前で、マイクを握って、声帯を震わせ、音程を調整する。喉だけでやるわけではなく、身体全身を使った、ある種の「運動」です。だからこそ、人種や文化による差異が大きい。外国人の独特のリズム感や音域は、その身体的特徴や普段の生活する環境が生んだものです。
我々はかつて電車に乗らなかった。最初に電車に乗った多くの乗客は皆、酔ったそうです。今では誰もが最初から問題なく電車に乗る。これもまた身体技法です。走ること、泳ぐこと、すべて訓練で覚えます。なぜ歌だけが違うことがありえましょう。ただ座ることさえ、赤子は最初からできないではないですか。
実際身体を動かすのは「脳」であります。それゆえ、身体を動かす際に、脳の「イメージ」が果たす役割というのは、相当大きい。
ただ手を動かすのではなく、「円を描くように」と言われれば、急にできるようになることがある。これは、運動を部分でとらえるのではなく、全体でとらえるために有効であったり、逆に最低限このポイントを抑えれば、という部分の形を決める際にも役立ちます。
バドミントンでも、いたるところで「壁」を作ることの重要性を言ったりします。「振る」ことより、「戻す」ことの意識の方が重要な場合もあります。結局、どれだけ速い球を打っても、現代の軽いラケットでは対応できます。時速が数十キロ速くなっても、到達スピードはほんの僅かはやくなるだけ。それならば、打つタイミング自体を早くしたほうが、数段効果が出てきます。同時に、「戻す」ことを前提とした「振り」は結果的に脱力を生み、各関節の稼働を加速させます。ディフェンスにおける壁も同様で、てこの原理で身体から遠いところの方が少ない力で大きな力を生み出せる。遠いところで打つためには、速く反応して相手の出鼻をくじけばいい。こうして、速くて強いレシーブが生まれ、攻められているはずが、攻めている状態になります。
「イメージ」が作り出す効果は、発声でもかなり大きいようです。なにより声を出すことに関わる身体の部位はどこも見えません。腹筋も横隔膜も声帯も全部見えない。喉の中も見えない。なのに確実に身体を使う。だからそこに「イメージ」が必要になります。当然どこにどのようなイメージが有効かは人によって異なりますが、それぞれのイメージを探る過程として、そもそもイメージを使うという訓練、そして他人のイメージを真似て、それを自分なりに変えていくことが必要になります。まずはこれが基準、正統派、というものがなければ、ユニークも変則も生まれません。ピカソだってホントは普通のデッサンすごくうまいわけです。
そのあたりの「身体の使い方」のための、一つの基準として、先日の講義は大変興味深かったです。なにより喉への負担が小さい。小さいのに大きな声が出る。翌日も相当大きな声を出しましたが、かなり楽に出せました。
タイトルの「格物致知」は『大学』のなかの「致知在格物、物格而知至」に由来します。
解釈は分かれますが、簡単に言えば、あらゆる物事の道理を極める、ということです。
結局、何事であれ、極めようとすると、ほかの分野にも通底することがあるものです。
このたびは大変勉強になりました。ありがとうございました。