「教育」と「選別」
先日、ある方とスポーツのジュニア育成の話になり、「たとえば自分の子供を通わせたいか?」という話になりました。
その方の答えは「あまり通わせたくない。」でした。
「いまのジュニア育成は、たくさんの子供を集めて、”最初からできる子”を選んでるだけで、”できない子をできるようにする”ことはしていない気がする」
とおっしゃいました。
私も少しその点は感じていたことです。
どんなスポーツでも「基本」が大事なのは当たり前です。それができていないと建物が歪むようにきちんと高く積み上げていくことはできない。なので、最初はじっくり時間をかけて、基本を身につけなくてはならない。ときにはその「基本」は日常生活ではありえないような不自然な動作であったりするので、余計に定着が大変です。
ところが、これを最初からできる子がごくまれにいる。すこしやれば身につく子もいる。それがいわゆる「センス」のある子になります。
教えてもなかなか結果を出さない子を育てるより、「最初からできる子」を「選別」して、さっさと高いレヴェルに放り込んだ方が、圧倒的に楽だし、結果が出る。
こうしてジュニア育成の過当競争が起こり、どんどんどんどん幼い「天才」が出てくる。「育成」するはずのスクールの仕事は「選別」するだけ。
「天才」にとってそれはいいことではあるのですが、そんな育成システムが意味があるのは、ごく一部の子にとってのみ。結局、ほとんどの「できない子」は、「できる子」の環境整備のために月謝を払ってくれるいい「お客さん」ということになります。
教育の現場も、悲しいかな、似たところがあります。
教師も、結果を出すこと、カリキュラムをこなすこと、外向けにアピールするために、振り回されています。
授業と言えばテストをするばかり。そこで「選別」を行って、どんどん「最初からできる子」を探し出し、それを取り合い、今度は「すこしやればできる子」を取り合い、さらに・・・。
それは「人を育てること」とは全く別のことなのではないか。
人を育てることというのは、もっともっと、じっくり、ゆっくり、結果がなかなか出ないことなのではないか。むしろ、人を選ぶことと対極にある、「選ばないこと」、つまるところ目の前にいる人間を、誰かと比べずに、一人の人間として全力で向き合うことなのではないのか。
それはすごく難しいことなのですが。何事も早く「数字」を求められる社会では特に。
自分の子供でさえ、きょうだいと比べよその子と比べ、結果に焦り、世間体を気にしてしまいます。
ほんとうにいまは余裕がない。早め早めに結果を出し、「選別」に残り続けることしか道がないような気分にさせられます。自分が小さい頃はもっともっと、ぼけーっとしながら「ただの子供」でいられた気がしていたのですが、気のせいなのかなぁ。
家庭でも職場でも、自分が誰かを「教える」ことなどできているのだろうかと、考えさせられた一日でした。