慈眼寺 副住職ブログ

俳句はすごい。

たまたまTVでNHKの俳句を見ていますと、力作揃いでびっくりというより、感動しました。

お題の季語は「鳥威し」と書いて「とりおどし」と読みます。要は実りの季節に色々なモノや音で鳥を追い払うことを指すようです。ですから「秋」の季語なんです。ちょっと見ただけなんで、正確ではないんですが、農機具メーカー?の方も来てて、「実は鳥を追い払うのは現代では夏。だから夏の季語になってしまっている。」というようなお話もあって目から鱗の連続。

なにより面白いのは、俳句って、ただキレイだな、美しいなと通り一辺倒な気持ちを書くだけではもちろんダメで、事細かに、個人的な体験や感覚なんかをあらわすわけです。それは独自性や希少性が高い、すなわち独自な体験や感覚であればあるほどリアルになる。つまり個人の極私的な空間に入り込めば入り込むほど臨場感が出て、表現に凄みというかリアリティーが出る。

しかしながら、そうなればなるほど、普通は、いわば「専門的」と言いますか、「いや、俺鳥追い払ったことないしわからないよ」ということになる。

なるはずなのに、なぜか、わかる。

そんな鳥威しグッズなんて見たことないし、トラクターも運転したことないのに、伝わる。刺すような色が見える。響きが聞こえる。肌でびしびし感じる。

しかもそれがたった17文字によって引き起こされる。

これはすごいものだなと改めて感じました。

要は、私が普段からよく言う、特殊と普遍の問題でもあります。
誰も知らない個人的な問題を突き詰めていくことで、それが誰かにとってリアリティーを持った問題として共有される不思議。遠回りなようで、実はそれが近道でもあるような不思議。

実はたった17文字なのも、近道なのかもしれない。

多弁を弄して長いこと話しても伝わらないことが、たった一言で伝わることがある。

それと面白いのが字余りや字足らずといったような破調ですね。ルールを決めてから、敢えてそれを逸脱することが、不思議なリズムを生んで心地よいことがある。調和を破っているようで、破っていない。そのギリギリの逸脱で遊ぶというのが、面白いです。狙ってやるとあざといんですけれど。

破調の生む不気味な感じって好きなんですよね。あるべきものがプツッと切れる感じ。終わるべきものが流されていくように続く、怒涛のような感じ。どちらにせよちょっと怖いんですよね。

朔太郎の「猫」のような不気味さ。のんびりした情景から奈落が覗くような怖さ。

生の真理をむき出しにするような怖さがある。

もちろん、暑い感情のほとばしりみたいなものも、破調で表すことができますし。

いずれにせよ、わずか1文字や2文字やそこら。それが句の温度を変え、奥行きを一瞬で変えるというのは、すごいとしか言いようがない。

 

僕は俳句はやらないですし、やる人の平凡な作品見せられるのも苦痛で、「お~いお茶」の裏の俳句見る程度の、つまりただの人なんですが、俳句って本当にすごいなと思います。俳句って、実は本気でやるとすごいお金がかかるらしく、昔の話を聞くと、俳句で身上をつぶした旦那さんなんかもお位牌の状態でお会いしてます。昔の風流人てのはとことんやりますからね。

いやー俳句はすごい。俳句はこわい。

というお話。