勝ってうれしい花いちもんめ
気になって仕方ないスポーツ選手が一人います。
小平奈緒さんです。
平昌オリンピックでの活躍や、敗者を讃えるスポーツマンシップとか、そういうことで話題になった人ですが、個人的には、画像を通して伝わってくる「透明感」に強烈な印象を持っています。
美しい人というのは多かれ少なかれ「透明感」というようなものがあり、もちろん、色の白さとか肌のきめの細かさなどでも感じるのでしょうが、彼女の独特の澄んだ瞳や、口の右端をあげてニヤッと笑うような不思議な表情など、吸い込まれるように見てしまう何かがありました。この「透明感」は、どこからやってくるのだろう、とずっと気になっていた時、その小平さんの記事がまたあったので読んでしましました。
https://article.auone.jp/detail/1/6/12/112_12_r_20180608_1528424082440219
「氷上の哲学者」なんていう、陳腐な表現は正直言ってものすごく嫌いです。哲学のなんたるかの定義もない人が、自分の理解できないものに出会うと、往々にして「深い」とか「哲学」という言葉で誤魔化します。要は、理解することをギブアップしているだけなのに、難解な言葉を使ってそのことを誤魔化しているだけだと思います。
人によって定義は違って当然ですが、私にとって哲学とは、単に考えることを好むだけではなく、「こと自体、もの自体を考える」行為だと思っています。対象を考えるのみならず、対象を考えること自体の構造や意味を考える、そうした平たく言えばメタな視点、もっと平たく言えば回りくどいを通り越して、そもそも土俵に上がる前に土俵の下を掘り返すような営みが、哲学だと思っています。
そうした意味では、小平さんは哲学者だとは思わないし、哲学的であるとも思わない。さらに、哲学者とは言葉に徹底的にこだわる種族だとも思っていますが、彼女の言葉自体はそれほどよく練られていたり、体系立てられているような印象も持たない。基本的には非常に素直、そして感覚的な言葉を使いまずが、その「感覚」が一種独特なために、ときにそれが「哲学的」だと解されるのではないかと思います。
むしろ考えることよりは、「感じること」に対して貪欲で、鋭敏であるような。どちらかといえば、楽器の演奏者や画家や彫刻家なのような、感覚への圧倒的な集中というのが、彼女の特質だと感じています。そして「感じる」ことに集中するために、他の一切が透明になってしまっている。それが彼女の「透明感」の秘密なのではないかと思ったりしています。会ったこともないけど。
新型ブレード「サファイア」に出会ったときも、「かえってタイムが落ちるかもしれないが、このブレードを使いこなしたい」といったような趣旨の発言をされていたような気がしますが、実際に、サファイアを使用した際の感覚も「これはダメだ。遅い。」と感じたにも関わらず、ベストタイムが出たといったような面白い事態が生じています。
私なんかには到底理解できませんが、「氷を掴む」という感覚がきっとこの競技においては重要で、単純に氷に力を伝えるだけでなく、その「掴んだ」あとに「滑る」への移行をも含み、エッジのどこに、どれだけの範囲で力を伝えるのかという、非常に繊細な感覚が、気の遠くなるほどの試行錯誤の果てに養われているのだと思います。僅か0.9m×40㎝のブレードの下に、得も言われぬ色と形と感触をもった独特の世界が広がっているんだと思います。
彼女はそういった「感覚」に対し、他の感覚をすべて捨象して、速く滑るために必要なものだけを選び取りながら、そのために必要なことを肉体と対話しながら導き出して、理想の「美しい滑り」=フォームを形成している。そうやって作り上げたフォームはいわば公式であって、あとはリンクや肉体のコンディションや集中力や相手選手の存在など、他のあらゆる変数をあてはめて、世界新記録という「解」が出るのをひたすら待っている。そんなふうに感じます。
このような人だから、「この人になら負けてよかったと言われるような選手になりたい」という表現が出てくるのだと思います。勝負の世界に生きている人はみんな並外れて負けず嫌いで、何が何でも勝つ!というような、我の強い人だと思っていたのですが、確かに小平さんにはそのような感情は似合わない。これは競技特性なのかなと思ったりもしますが、それだけでもないようにも思います。
相手の弱点を探してそこをとことん攻めるというような競技ではないものの、スピードスケートにもきっと、駆け引きなり、闘志むき出しの戦いもあるんだと思います。しかし結局のところ、この人の場合は、「自分自身との戦い」というのが何より大前提にあるから、このような境地に達するのかなと思います。もちろん、誰も到達できないような速さの領域に挑む場合には、単純に誰かに勝つ、ということを超えて、相手の力すら利用して自分を高めていく作業が不可欠なのだろうとは思いますが。
しかし昨今のスポーツ界の嫌な話題を見るにつけ、「誰かを蹴落として、上に立つことがスポーツの良さとは思わない」という言葉の重さがやはりズシンときますね。
かくいう私も、スポーツの世界では、どうしても勝負、勝負にこだわるくせに、土壇場でそのプレッシャーに負けて、安易な方に流れて夜も眠れないという、「誰かを蹴落としたくて仕方がないが、結果的に蹴落とされている」その他大勢の一人でしかないのです。「誰かに勝つこと」が自己目的化して、自分を高めること、がなおざりになっては本末転倒。でも情けないことに、「あんな奴には負けたくない」というようなネガティブな理由で戦っている自分がいたりします。
それよりも、長時間基礎練習に没頭して、基礎だけで汗びっしょりになって床が濡れるほど練習して、ああでもないこうでもないとフォームの確認を行っているときが、実は一番楽しかったりして、この感覚を、実際のゲームの中でも持てたらなと思ったりするのですが。
最近娘も大きくなって、色々トライしたりしています。おともだちにひらがなのお手紙をもらった日には、チラシの裏に何枚も何枚も「ひ」や「ち」などを書いて、必死で練習したりします。
「なんでそんなに頑張るの?」
と聞いたとき、
「負けたくないねん!」
と答えたんです。
頼もしいな、と思う半面、別に負けてもいいやん、と思ったんですよね。どうせ字なんてみんな書けるようになるし、早く書けるようになるのを競っても意味がないし。
「人は関係ない。お前が書きたいことがあるなら書けばいいやん」と思いましたが、頑張ってるのでまぁ黙ってました。
逆上がりの練習も毎日毎日マメができるまでしています。さいきんはじめたピアノでは、できない曲では涙を流しながら、それでもピアノの前から離れません。これもライバルがいるのか、それともほめられたいのか、よくわかりませんが、なんかやたらと頑張り屋なんですよね。こんな人うちの一族にいないんですけど。
誰かに勝ちたい!って思う気持ちはもちろん人間の原動力だと思うので、まぁ、覇気があるのはいいと思うんで、その反面、「勝負じゃない」っていう側面を、逃げじゃなくって、大きな視点でものごとを見られるような、私と違ってスケールのでかい人間になってほしいなと、思ったり、まぁ小さくても、小さいなりに自分の小ささが分かってりゃいいか、と思ったり。所詮俺の子ですからね~。
小平選手と娘、全然スケールが違うんですけど、ついつい娘に結び付けて考えてしまいますなぁ。