コミュニケーション能力なんて要らない。
この手の媒体の記事としては久しぶりにおおっ!と思う、好みの視点の記事でした。
要点をまとめると、
- 「コミュニケーション能力」なるものには実体がない。
- 「能力主義」に対する明確な指標が存在しないことが、このようなあやしい能力を称賛する風潮になっている。
- このような「先行きに対する不安さ」が「評価基準を見直し続ける」こと自体が目的になってしまっている状況を生んでいる。
ということになります。
結局いつの時代も人間は似たようなことを繰り返しているということになります。
と、同時に、「これは日本古来の伝統だ」と思っていることは、たかだか100年ほど前に唐突にはじまったことだったりして、そのときどきの状況に流されながら、全体的には愚かしいことを繰り返している、というのが実情かと思います。
基本的に、「指標」とか「基準」というのは、便利であると同時に、本質的に限界があります。これはもう自明のことです。
たとえば「身長」を基準にするということは、それ以外を捨てるということ。物事を単純化して判断のスピードをアップできますが、当然多様性も捨象されますので、他の基準では評価されるべきものまで捨ててしまうことになります。
「オールマイティな基準」などというものを求めるのは、最初から矛盾した行為である、ということになります。
「コミュニケーション能力」という言葉は便利ですが、そもそも誰とコミュニケイトするのか、で、その能力評価は変わってくるはずです。「なるべく多くの人間とコミュニケイトする力」だと定義すると、そこで捨てられる少数こそがターゲットの場合、無意味になります。そもそも「数が多い」ということは、質が低いことを意味する場合もあります。ものの価値が「希少性」だとすれば、ありふれた人材と仲良くなれる能力が、価値ある少数の人材と仲良くなる機会を失わせることは十分あります。
「コミュニケイトする」ということの意味合いがそもそも曖昧です。人間と「意思疎通」をするということは、多元的です。表面上数分間話を盛り上げることが重要なのか、生涯の友になることが重要なのか。いやそもそも、生涯の友になることに意味があるのか?考え始めればきりがありません。
販売や商談などで、「効果的にモノを買わせる能力」として、かなり限定的に使用しても、短期的か長期的か、どちらのスパンで判断するかで評価は変わりますし、そもそも地域や時代や年齢で、「どの人間が最も売るか」などということは変わってしまう。
結局「能力」などというものは、どこまでいっても相対的な性格を免れないのであり、そこに「絶対的な尺度」を求めようという行為が、土台から愚かなのだ、という認識だけは、持っていて間違いないように思います。
何かと言うと「鈍感力」とか「人間力」とか「根本」とか「人間性」とか、分かったような分からんような言葉を使って、「ホンモノを見極める」気になっている会社や学校やら個人やらがいますが、もうそういうのを見るたびに、
いやいや、おまえらなんも分かってないよ。俺たち何も分からないよ。
って言いたくなります。
とはいえ、だからといって、
「わが校は適当に選びます」
「わが社は出たとこ勝負です!」
とか言えるわけもないのであって、もっともらしいことを、一貫性をもってるふりをする、というのが、どうやら日本では伝統的に、数多くの平凡な消費者を騙せるやり方として、「安心・信頼のブランド」みたいですね。
いやーわからん。ホンマにわからん。世の中何もかも何一つわからん!
と真理を吐き続ける人が、「愚か者」扱いされる世の中。なんだかおかしい気もします。