慈眼寺 副住職ブログ

お説教と授業

なかなか時間がないなか、先日またお説教の練習会へ。

ほぼ毎年このお寺でお説教をする場を与えて頂いているのですが、なかなか上手くならないなぁと思っています。

毎日授業をやっていて、お説教との共通点とか、相違点とか、色々考えたりもします。

人前で話す、という行為は同じなのですが、やはり、自分より年長の方を相手にするというのは緊張します。そしてなにより、テーマが宗教なので、もちろん仏教の知識としてはそれなりに勉強していっているのですが、やはり「生死」「人生観」ということが主題になってくると、年長の方の前で何をかいわんや、な部分も。

それでも、それでもやはり、「布教師」として、専門家として、自信をもって話さなければならない部分も当然あります。そうでないとその場に立つ意味がない。だがしかし、若輩。年長の方々に「育ててやろう」と暖かい目で見て頂いて、なんとかかんとか足掻いております。

「お坊さんらしく」なければならない部分と、「そうでない」感じのバランス感覚とか、色々悩んだりしながら、「学校は、最後は”入試に出るで!”って言うたら終いなとこあるし、そこは楽だよな」と思ったり。「ココ!阿弥陀さんにきかれるで!」とか分かってたらいいんですけど。まぁ、ある意味それはハッキリしてはいるんですが(笑)

でも「授業」じゃないんですよね。「教える」んではない。知らないことを伝えるのではなく、「わかっていること」を「聞き入らせる」という、ある種、熟練の落語家さんみたいな、何度も見てるネタなのに、ついつい聞き入っちゃうというのが、理想なのかなと思ったりもします。

まぁホント、こんなん言うたら怒られるかもしれませんが、教師としては、はじめて教育実習で教壇に立ったときから、「正規の担当教員喰ったる」って思ってたんですよ。指導教員より俺の方が、って。まぁ、その判断は間違ってなかったと思うんですが(笑)

でもお説教は難しいですね。やっぱりどこか、「よそ者」感がある。「哲学科で西洋哲学勉強してた」とか「教師してる」とか「自転車乗ってる」とか。そういう、「よそ者」「色物」感で売っていけるのって、最初だけだと思うので、やっぱり本筋の教義をしっかり勉強しないとアカンな、と思います。なんか今日は詮無いことを書いてますね。寝ようかな。寝ますわ!