慈眼寺 副住職ブログ

いまさら「天気の子」レビュー<後編>

さていよいよ肝心のレビューを。

<注意!ある程度ネタバレしてます。>

 

ジブリとの曰く言い難い関係

実はこの映画、ジブリの作品になぞらえて語られることが非常に多い。

一番多いのは「ラピュタとそっくり」。
次に多いのが「千と千尋の神隠し」。
さらに「ポニョ」だという人。
最後に「ナウシカだ!」という人まで。

よくもまぁこれだけ出てくるものだなというほどです。

私もストレートに「ラピュタっぽい」とは思ったものの、それで「パクリだ!」とか言う気はさらさらなくって、これはこういう事情だと思うんです。

①ジブリがいかにアニメ表現の鉱脈を掘ってしまったか、ということ。

そしてもう一つ。

②つまり、みんながそれほどまでに「ジブリ的なもの」を欲している、ということ。

①に関しては、庵野秀明がもっとラディカルに「僕らの世代はオリジナルなものなんて基本的にはないことを認めるべきです」という発言をしていますが、これはジブリの影響に限った話ではなく、現代のアニメーターが完全独創で何かを創り上げるなどということは、そもそもありえない。「燃え」にも「萌え」にも、必ずいつかどこかで見た何かが下敷きになってしまっている。そうした影響を排した「オリジナル」な表現などありえない、という意味だと思います。

ですから「空」を表現すれば、我々はどこまでも「ラピュタ」の影響から自由にはなれないし、その「ラピュタ」にしてからが、それ以前の何かに影響を受けて表現しているわけです。

そして見る側の我々も、というか私も、空のデカい積乱雲を見れば「竜の巣だよ!!」と叫ばずにはいられないわけですし、空から落下する男女を見れば「ああ。これは手をつないじゃうんじゃないか・・・」と思い、手をつないだ瞬間「出たッ!」って思うわけです。見る側もわかってる。「ヨッ!成田屋!待ってました!」みたいな感じ。「お約束」なんです。そのくらい空と空中落下を描こうとすれば、もうジブリがやり尽くしてるわけなんですね。

で、これはそのまま②にも繋がるわけですが、どうやったって「ジブリ」になる。むしろ「見る側にジブリにされちゃう」。じゃあ作り手も「じゃあ、やってやろうじゃないの」と腹くくるしかないと思うんですね。「覚悟完了。お約束上等!」ってことですね。もう見る側が「ジブリみたいなものを見たい」って思ってるわけですから。それを存分に見せたらいいわけです。

いつまで経っても何度テレビ放送してもジブリが視聴率とっちゃうわけです。日本国民は「ジブリ」がほしい。でもそれはもうあんまり見られない。じゃあ、「ジブリ的なもの」を提供しよう。

そういう「共犯関係」が、少なからずある気がしますね。

 

テーマは「カオスとコスモス」

さて。これまでのいわば、外野の野次みたいなものを丁寧に除去して、いよいよ本題に入るわけですが(実はそれでも残るジブリとの共通するテーマも残るのですが)、前作「君の名は」はとにかく「美しい作品」でした。

作品で描かれる田舎の田園風景、空の隕石の描写が全て美しい。そして定められた運命に抗う少年たちのまっすぐさがまぶしい「美しい映画」でした。

今回の「天気の子」には、意識的に「美しいもの」に対して「醜いもの」が対置されていた気がします。

「君の名は」で美しい田舎の風景が描かれたのと同じくらいの熱量で、東京の薄汚い街が描かれます。雨に濡れるごみにまみれた裏通り。ゴチャゴチャ無計画に建てられたビル群。そこで暮らす汚い大人、そしていずれそうなっていく子供たち。

雨に濡れる東京が汚ければ汚いほど、晴れ間が差す東京は美しくなる。

天気一つで何もかもが変わる。

「100%の晴れ女」は「汚い東京」をいっとき美しく変える巫女であり― 

魔女でもある。

美と醜の対比をしながら、その相対性を浮かび上がらせる。

美しいと思っているものは醜いし、醜いものは美しい。そんなものは簡単に入れ替わってしまう。より大きな目でみれば、美と醜とコスモスとカオスは同じものである。

そういうテーマが見て取れます。

「異常気象」という言葉の「異常」を相対化するような神主の言葉も象徴的です。

なーにが異常気象じゃ!だいたい観測史上初とか、せいぜい100年。この絵はいつ描かれたと思う?800年前じゃ!

さらに水没した東京についても、「もともとここは海だった。だからもとに戻っただけ。」という表現があります。

つまりコスモスとカオスなどというのは、小さな人間の目から見たものに過ぎず、より大きな「天」から見れば、そのような区別は存在しない、というような、道教的思想がそこには存在している気がします。

罪と罰

で、今度は子細にキャラクターを見てみますと、ヒロインの「晴れ女」と少年は、「二人が一緒にいるため」に、ある意味で「東京を滅ぼす」選択をすることになります。客観的に考えれば利己的な判断で数百万人レベルの命を奪う可能性があり、そのあたりが「賛否両論」とされたところであります。時期的に水害や台風と上映が重なることは十分考えられ、そのあたりは制作側もモラル面で非難されることもかなり想定したと思われますが、結局「世界を敵に回しても、好きな子を選ぶ!」というシンプルな恋愛讃歌の印象が強く、「青春映画」といった趣きで、そこに孕む「罪」を考える倫理的問題は顕在化していません。まぁ、濁流に流される人々なんて描写は避けたのがよかったのでしょうね。「君の名は」も3.11になぞらえて作られたことが明らかでしたが、今回もやりようによっては3.11とオーバーラップする部分もあり、そこが前面にでればもっと議論が起こった可能性がありました。

ただまぁ、初代ドラクエで竜王に「せかいのはんぶん」をもらってしまった経験がある私のような人間にとっては、「お話なんだからそれは別でしょ」というまぁ、あたりまえっちゃああたりまえの話にも思えます。

いずれにせよ、「東京水没」という「罪」をあえて主人公たちは引き受け、その後も生きていくことになります。

おそらくは、その「罪」とか「善悪」という問題も「美醜」と一緒に相対化するのが監督の狙いなのかなと思ったりします。冒頭でヒロインをカネで雇い、夜の世界に引き入れようとしたあげく、激昂した主人公をタコ殴りにしたおにいちゃんも、ラスト付近では愛する家族と一緒に暮らしている描写があったりするのもそのへん意図しているのかなと思ったり。

 

ただ、野暮を承知で、ここでさきほどのジブリの話が再度登板する余地があります。

この映画を「ナウシカだ!」と主張する人は、まさにこの「好きな子or東京」の選択の点が、「ナウシカ的である」とするわけです。

原作版ナウシカでは、「墓所」の人類滅亡を避け、浄化した世界で再びかつての人類を復活させるために、腐海や蟲や現在の人類を創造しました。これらはすべて旧世界を復活させる目的のためのプロセスとして仮に必要とされたにすぎないものです。やがて数千年後に浄化された世界が復活した暁には、現在の人類はすべて滅びることになります。

ナウシカはこの「真実」に怒り、「墓の主」を葬ります。この選択は、やがてくるはずの旧人類の復活を不可能にし、同時に滅びに瀕する現在の人類を助けることにもなりません。いわば、「人類が滅ぶならそのまま滅ぶべき」という選択を、一人の少女が行ってしまったことになります。

「私達は血を吐きつつ、繰り返し繰り返しその朝を越えてとぶ鳥だ!!」
「生きることは変わることだ。王蟲も粘菌も草木も人間も変わっていくだろう。腐海も共に生きるだろう。」
「私達は腐海と共に生きてきたのだ。亡びはすでに私達のくらしのすでに一部になっている」

きわめつけが、

「いのちは闇の中のまたたく光だ!!」

生と死、光と闇の共存、コスモスとカオス。それを選ぶたった一人の少女。

おそらくはここに、「天気の子」を「ナウシカ」とを重ねる人がいるのだろうかと思います。

ですが、実際には「天気の子」ではこのあたりのテーマもあくまでバックグラウンドに控えるのみで、大上段で語られたりはせず、あくまで「好きな子と東京、どっち選ぶ?」という「青春映画」のテーマに、おそらくは敢えて終始させています。このへんは作家性なのか、時代性なのか、その両方に起因するのかなぁ~と思ったり。

「社会問題なんてない!どこまでも今ここにいる私の問題しかないんだ!」

というこれまた別のテーマがそこにあるのかもしれません。

 

”大人”の不在

最後に私の個人的な不満点を。

この映画、個人的には「青春映画」としてもいまいち没入できず、「君の名は」くらいの単純さが欲しかったなとか思うんですね。主人公の少年は、前作の主人公と比べてもエキセントリックで、「君の名は」の主人公を「アムロ」とするなら、こっちは「カミーユ」だなと思って見てました。ちょっとワケわかんないくらい思い切っちゃうんですよね。そもそもピストル、要る?とか色々気になる。

それよりなにより、この作品には「大人」が出てこないんですよ。

「青春」って、そもそもまわりに「青春」じゃない人がいてこそ際立つでしょ?七日間戦争だって、「オンザ眉毛!」って叫ぶ佐野史郎がいるからガキのバカ騒ぎがなんか知らんけど見れちゃうんですよ。ギャップよ!ギャップ!

もちろん、圭介や夏美先、そしてさきほどの風俗業のあんちゃんや刑事二人など、いわゆる成人したキャラクターは出てくるんです。

ただ、そろいもそろってみんな青臭い。

圭介&夏美に端的なんですが、「大人の事情」とか優先しつつ、要所でただの犯罪者になっちゃうんですよね。

ちょっとそこが工夫が足りないかなぁなんて思うんです。

「大人」だったら、「大人の事情」を守りつつ、ここぞってときにはこっそり賢く司法を出し抜いて、若人を助けてほしいっておもっちゃうんですよ。なんというか「タフさ」ですよね。

それこそラピュタのドーラが「女の子の髪」に涙しつつ、ちゃっかり財宝をくすねている感じであったり、カリオストロの城の銭形みたいに「わーにせさつだー」なんてわざとらしくやっちゃう感じ。「紅の豚」なんて全編「タフな大人」しかでてきませんよね。食えない連中ですよホント。あとジブリじゃないけど「パイナップルARMY」のハリデー准将ね。男はタフじゃないとね!

そういう酸いも甘いも嚙み分けた「大人」が出てこないんですよね。

平泉成にしたってやたら同情的だし。なんか出てくる人みんな子供っぽくて、衝動的で、感傷的。

このあたりが「時代」なのかなと思ったり。

 

よくも悪くも、宮崎駿(とか松本零士)以前の時代には「カッコイイ大人」というロールモデルがいて、少年がいつかそうなりたいような姿として背中で語り、ときには壁として立ちはだかったりするわけです。

しかし自分がオッサンになって分かるんですけど、別に40になったから惑わないわけないんスよね。でも、そういう「役割」を昔は引き受けたわけです。そこに「覚悟」があった。「諦め」があった。虚像でも「大人」がいた。

でも現代はそうじゃない。

価値観は多様になって、人は男でも女でも、若くても年寄りでも、いくつになっても、自由で、可能性があって、夢を見てよくって、だからつまり、諦めなくっていい。我慢しなくていい。

だから―

そこに「大人」はいないんですね。

そういう「一億総モラトリアム」みたいな時代になってる。

はからずもそういう「リアル」を描いちゃってる。

だからコレは作品への不満というより、ただの私の愚痴なのかなぁなんて思ったりします。

ですが結局、「青春映画」としての「せつなさ」も結局イマイチ入り込めず、MVとしてはノリもイマイチで、私としては「う~ん、微妙かな」という感じ、長々書いといて「微妙」ってか(笑)

ちなみに映画始まる寸前に「絶対泣く!私絶対泣くわ~!」と連呼していた女子高生ですが、帰り道では「途中泣きかけた!」って叫んでました。

つまり泣いてへんのやないかい!(笑)

 

一人の女の子を「途中泣きかけさせた」。うむ。実に的確な評価であるッ!