”天才”なんていない
【井上尚弥の父・真吾トレーナー手記】天才って言われるけど「冗談じゃねえよって」小1から血と涙がにじむ練習
ボルトも吐きながら走っていた “世界2位の日本人”が体感した「天才」コーチの練習
大金星呼んだジョセフHCの“俳句” SO田村優「その通りになった」
最近スポーツで感動することが多いです。
メディアがウェブ経由で細かい情報をどんどん発信できるようになった「功」の部分かもしれません。
上の三つの記事はどれも、「天才」もしくは「超人」と思われるような人たちも、我々の想像もつかないような、気の遠くなるような、とんでもない努力を捧げて、一握りの勝者の座についている、ということに気づかせてくれます。
「アイツは天才」「モノが違う」なんていう言い方を我々はよくします。が、それは結果だけを見た発言であり、同時に、その「過程」に目を瞑り、安きに流れ続けた自分の人生に目を瞑る行為であるように思います。
あのボルトでさえ吐きながら走っている。この恐るべき事実。
よくここで言われるのが、「努力する才能があるのが天才」という言葉。
確かに、「たゆまぬ努力を黙々と続けられることこそが実は天賦の才なのである」という逆説的な真理も言えるのかもしれません。
とはいえ、これもまた、「天才」と「我々」の間に「~~という才能」の線を引き、自分だけを安全圏に置く行為であることには変わりはない気もします。そもそも、凡人の自分の限界まですら、我々は追い込めていない。吐くほどの努力を一体何度したのか。一度でもしたのか。
確かに「吐くほどの練習を行う動機付け」が我々にはなく、その動機こそが、トップレヴェルの選手のみに与えられる「報酬系」なのかもしれません。「できるからやれる。」からの「やれるから、やる。」へと続く好循環。
誰もが限界まで自分を追い込む必要はありません。
適当にお茶を濁して、負けた自分を照れ隠しで忘れて、「ほどほど」の日常へ帰っていく。それは何と甘美な生活でしょう。(我々の愛すべき日常です)
ですが、みんながそうやって「我が家」へ帰っていくなか、一人取り残されて、戦い続ける「できる人」は何と孤独なのか。
「天才」というレッテルを貼られて、ただ一人自分の限界を突破することを求められ続ける人間の、なんと崇高で、そして過酷な姿か。
我々はただただ仰ぎ見て、歓声を送るだけの、どこまでも無責任な安穏に心ゆくまで浸りながら、「勝った」というカタルシスだけは得ようとしている、どうしようもなく卑しい盗人なのではないか、そんなことも思いながら。
それでも頑張る人間に我々ができることは、祈ることくらいしかないなぁ、なんて思いながら。
喰って寝て死ぬだけの人生に、他人のために祈ることのできる時間があるというのは、それはそれで、いいことではないのかな、なんてことを考えながら、今日も吐きもせず、だらだら生きています。